B 宮沢新田

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 宮沢新田は、昭島市域内の宮沢村を親村とした、村請新田である。元文元年の新田検地により、行政的には独立した近世村落となった。元文四(一七三九)年の調査によれば、戸数は一五戸(内潰一戸)であった。
 享保期に成立した武蔵野新田の景観は、きわめて特色のあるものであった。街道に沿って整然とならんでいる列状の村落と、家屋の背後に街道と直角の方向に延びる短冊型の土地割である。各農民の屋敷ごとに屋敷森が植えられ、街道に沿って長くのびている。屋敷地の奥が畑地、その奥が林であった。
 武蔵野台地の新田集落に、短冊型の地割がひろく認められるのは、開発が計画的に実施されたこと、各戸の土地所持面積を均等化させようとしたこと、および地形がおおむね平担であったことによる。
 新田(村)の経営は、すでに述べてあるように、持添地開発よりもいっそう困難であり不安定であった。元文元年の検地により、行政的には一ケ村となったが、それ以降しばらくの期間はさまざまな面で親村の実質的な支配下にあった。やがて、開墾が進展して、新田農民の経営が安定するようになると、次第に親村の支配下から離れていくようになった。一八世紀後半になると、村役人を独自に選出しようとする動きもみえはじめた。
 一八世紀の第四・四半期にはいる頃から、武蔵野の畑作地帯における種々の商品作物栽培が活発に展開するようになると、新田(村)は年貢賦課が低かっただけに、親村よりも繁栄するばあいも生じたのである。