しかしながら、七郎右衛門が上川原村の定名主に就任したことにより、同村新田をとりまく諸状況が好転したわけではなかった。翌元文三(一七三八)年には、武蔵野一帯はひどい凶作に見舞われた。この凶作を直接の契機として、幕府の新田政策は大きく転換し、その過程で元文四年に川崎平右衛門が登場してきたことは、先述したとおりである。
一般的に、川崎平右衛門は武蔵野新田の安定に尽力した功績者として、理解されている。たしかに、平右衛門の治績には、新田農民の経営安定に効果のあった諸施策が多くみられた。けれども、これらの諸施策は、幕府の新田政策の基調であった年貢増微のための手段という、枠組みの範囲内でおこなわれたものであった。川崎平右衛門はやがて代官として美濃国へ栄転していったが、それは平右衛門の代官としての手腕・力量が幕府に評価されたからにほかならない。ここでは、元文五年四~七月の上川原村「御公用諸事留帳」(史料編二五)により、幕府新田政策の実現に果した平右衛門の役割を述べておきたい。
元文五年五月八日付で、代官上坂安左衛門役所より、本田分の麦作についての年貢(夏成年貢)が、村々に提示された。それによると、賦課額は永三貫八〇〇文余で、六月二〇日までに江戸役所に完納すること、なおそのうちの三分の一は、五月一五~二三日のうちに納めることが指示されていた。新田分に関しては、
新田御年貢金之義、世話役川崎平右衛門方江取立、同人より役所納致候様ニ申渡候ニ付、割賦辻納日限共ニ平右衛門方より相触候
と伝達された。新田分の年貢関係の諸業務は、南北武蔵野新田世話役川崎平右衛門の専管事項となったので、その指示に従うべきことを、触れ知らせたのであった。
五月一〇日付で、川崎平右衛門より、新田分夏成永一貫八九七文を六月二〇日までに上納するように、という廻状がまわされた。なお年貢永の三分の一をやはり五月一五~二三日のうちに、納めなければならなかった。納入先は、平右衛門の居所押立村と指定されていた。ついで五月一八日付で、本田分に関して上坂安左衛門役所より、督促の廻状がきている。それによると、「先少々宛も来ル廿三日迄ニ可二相納一ニ相違致間敷候」とあるように、収納状況は代官の意に反して、極めて悪かったようである。さらに、収納先については、例年通り府中陣屋であるので間違いのないようにと、念がおされていた。
六月一二日付で、新田分担当の川崎平右衛門方より、きびしい文言の督促廻状がまわっている。それによると、
……今以不納不埓之事ニ候、来ル十四日半納十九日迄ニ割賦之通不レ残押立村ヘ持参相納可レ被レ申候、此迄延引計成儀ニ候間遅滞有レ之間敷候
というものであった。すなわち、納入期限がせまっているにもかかわらず、いっこうに納入されておらず不届である。一四日(つまり二日後)までに半分、十九日までに残り半分を押立村に持参し納めなければならない。期日がせまってきたので延期は認めない、というものであった。つまり新田分に関しても、年貢はほとんど不納状態であったけれども、この状況下に、平右衛門は実現不可能とおもわれる条件で納入を督励してきた。かつその文言の内容は期日ギリギリとはいえ、代官上坂安左衛門役所の廻状より、はるかに強圧的であった。
このような年貢不納の状況は、たんに上川原村にとどまらず、元文三年の凶作直後の武蔵野に一般的であった、と思われる。
川崎平右衛門は、年貢督促には右のような厳しい態度でのぞんだが、年貢が期日迄に納入された場合は、まったく逆であった。上川原村では、延享元(一七四四)年分の年貢は日限迄に完納した。これに対し、平右衛門は〓美を与えている。
……御日限被二仰付一候通無二遅滞一上納皆済仕候ニ付、為二御〓美一御目録被二下置一、……村中大小百姓不レ残名主方へ寄合、御日待仕候上ニ而頂載仕難レ有奉レ存候、……惣百姓連印を以御礼書差上ケ申候
平右衛門の〓美に対して、村の全農民が春のある日、名主宅に集って日待(ひまち)をしたうえで、〓美をありがたく受けとった。名主七郎右衛門が御礼状をさしあげたけれども、農民達の喜びをさらに伝えるために、惣百姓連印の礼状を認めたというのであった(史料編二六)。
この礼状を受けとったおりの、川崎平右衛門の破顔一笑した様子が、まのあたりに見えるようである。ここに、平右衛門の本領があった。自らは押立村の名主として、農民の意識・ものの考え方を知り尽していると自覚していた平右衛門であった。この自負を施策施行上の心の拠りどころとし、柔と剛とを使いわけることで農民の勤労意欲を刺激し、年貢収納の増加をはかり、幕府農政の一翼を担っていこうとした。ここに、支配階級への上昇志向をもった「地方(じかた)巧者」の一典型をみることができる。
このように、懐柔策と強圧策とを使いわけて、新田経営の安定化を画策した川崎平右衛門の施政に対して、上川原村の農民たちのとった行動はどのように理解したらよいであろうか。年貢の期限内完納の〓美に対して、村中の農民が名主宅へ集まり、そこで催されたお日待は、〓美への感謝の念の発露であろうか、それとも年貢皆済の安堵感によるものであろうか。さらに、惣百姓連印の礼状は、〓美に対する素直な感謝の表現であったのか、それとも川崎平右衛門の真意を見抜いていた農民たちによる、俊敏な吏僚に対する自衛策であったのであろうか。もしくは、この礼状はたんなる形式的なものにすぎなかったのであろうか。