C 苦難の農民経営

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 新田経営の不安定性は、畑地の頻繁な売り買いにあらわれている。この農民間の土地移動は、経営の困窮による所持地の譲渡によって生じたものであった。農業経営が成り立たなくなった農民は、余力のある者へ土地を譲渡して、なんとか危機を切り抜けようとしたのであった。土地の授受は、村内の農民間においてのみおこなわれたのではなく、近隣の村々の農民ともおこなわれた。たとえば、上川原村の元文三年三月の時点では、大神村居住の四人が上川原村の土地を所持していた(第17表)。そのほか、この時期には、上川原村の農民と拝島・大神・宮沢・中神の各村の農民とのあいだに貸借関係がみとめられる。このようにして、個々の農民の所持地がめまぐるしく移動したうえに、新田検地により入会地が消滅したこともあり、農民間の利害の調整は従来よりの村政・慣行では対応できないような、新しい状況にはいってきた。
 土地移動の激化は、当然のことながら、訴訟・争論の増加となり、それに伴なう費用も無視できなくなってきた。そこで元文六(一七四一)年二月には、「村中惣百姓地方定法之事」(史料編二三)が取り結ばれ、訴訟等の経費は当事者のみの負担ではなく、村内惣百姓の連帯により負担することになった。
 さらに同じ月に、村内の生活規範が惣百姓連印により制定された(史料編二四)。このなかには、当時の農業経営に不可欠な秣場の問題が含まれている。従来の広大な秣場は消滅したため、この期以降は肥・飼料をめぐる争論が続発していくのである。
 このように、元文検地後には、「惣百姓連印」による村内諸事象に関する規約が作られていった。これはいわゆる村法に相当するものであり、これが制定されていった背景には、新たな土地を取得して次第に力を貯えつつあった、小農民の発言力の伸長を見落すことはできない。
 新田開発以前は、村政は村のおもだった何人かの農民により、協議され実施されていた。したがって、一般の農民たちはほとんど村政への発言権をもたず、ただ決定事項を、承服するのみであった。ところが新田開発により小農民もそれなりに力をのばしてくると、主だった農民の利害を優先していた従来の村政・慣行は実情にあわなくなった。そこで、新しい状況に適合した新たな村落秩序が必要となってきた。この新秩序が創出されていく過程で、従来の主だった農民の特権と、小農民の新しい権利意識との対立が生じたと思われる。村内におけるこのような二つの対立する意識が存在したことを背景として、新しい村落秩序ができてきたのである。したがって、その時々において、双方の意識・利害を整合してできあがった新しい村政・慣行のあり方は、成文化される必要があった。
 事実、名主七郎右衛門の村政主導権は、成長しつつあった小農民の支持を基盤としたものであり、小農民の利益を擁護する限りにおいて認められたものであった。ここに、小農民の利害を一定程度反映した村法が制定され、村の新しい秩序が成立してくる理由があった。現実には、開発をめぐる畿多の障害があり、各農民の経営もそれぞれに不安定ではあったが、そのなかにはこのような新しい動きが芽ばえつつあったわけである。
 しかしながら、現実の農業経営は農民たちの願望どおりにはいかなかった。延享元(一七四四)年五月、上川原村持添新田の約三分の一が宮沢村へ譲渡された。第19表はこの譲渡分を示したものである。一見して明らかなように、譲渡分は畑方の等級で下々畑以下が大半であり、新田のなかでは生産力の比較的高かった下畑はほとんどない。これほ、下々畑といった地味の悪い畑地、および林畑・野畑といった畑作には不適当な劣悪地を、村民が年貢負担に耐えかねて集団的に放出したものと思われる。

第19表 延享元年宮沢村へ引渡し高反別

 さらに、第20表は、新田分所持高を元文三(一七三八)年と延享三(一七四六)年とで比較したものである。元文三年には、三〇人の農民が新田を所持していたが、延享三年には二人減少して二八人となっていた。この八年間に所持高を増加させた者は二人(ただし実質的には一人)、減少させた者一四人、増減のなかった者は一四人であった。また、所持高による階層構成よりみると、一石以上の層と一石末満の層とで、きわだった相違が認められる。すなわち、一石以上では一七人中一一人が所持高を減少させたが、一石末満層では一三人中三人にすぎない。かつ、所持高を減少させた農民の経営をみると、本田所持高を規準として相対的に新田所持高の大きかった者が多かった。

第20表 元文3年新田分所持高階層構成と延享3年までの変化

 延享元(一七四四)年の状況をまとめてみると、つぎのようになる。自己の農業経営を確立するために、耕作地の拡大を志向して比較的大きな開発地を取得したが、開墾の遅れと高率の年貢負担に耐えきれず、新田を譲渡せざるをえなかった。これが、土地を手放した農民の一般的な経営状態であった。けれども、依然として、上川原村の大多数の農民は広狭の差はあれ新田を所持しており、当初の経営拡大の意図は後退を余議なくされはしたが、なお経営安定のための努力を重ねていたのであった。