拙者義去年中より当年ニ至迄不仕合相続キ、家内中之者共永煩仕候故身上不手廻し罷成候ニ付、名主役相勤申事難レ成奉レ存候……
と記されている(史料編二〇)。つまり、去年から今年にかけて不都合なことが相続いて、家族のものが長期病床にあり、諸事万端行き詰ったので、名主役の職責を十分に勤められなくなった、というわけである。そして、後任の件については、「組頭四人之者共方江年番ニ被レ為二仰付一」るようにと希望した。この願書には組頭・惣百姓もそれぞれ添言し、村内惣百姓の一致した願状として代官へ提出したが、結果的には却下された。
翌延享三年一二月、再び退役願が提出された。定名主役退役願には、「当年茂漸相勤申候得共段々不手廻ニ罷成候ニ付、何分ニも定名主役相勤り不レ申候」と同様の理由が述べてあった。前年の願書との相違点は、後任の件に関してであった。組頭四人よりの願文に、「拙者共四人ニ七郎右衛門相添、五人ニ而年番名主ニ相勤申度」と述べられている(史料編二一・二二)。
延享三年の願書は、代官役所より認められ、それ以降しばらくの期間は年番名主制が復活することになった。七郎右衛門が定名主であった期間は、一〇年足らずで終ったことになる。
元文元年の新田検地後の約一〇年間における、上川原村の名主制度の変遷を簡単にまとめてみると、第21表のようになる。延享末年における年番名主制の復活にあたっては、旧来の二人のほかに、組頭宇右衛門・同源兵衛の二人が新たに加わっている。宇右衛門(註九)と源兵衛とは、ともに新田の取得で経営を拡大したものであった。
第21表 上川原村名主制度の変遷
年番名主制の復活にあたって注目すべきことは、延享二年一二月の願書である。この願書によれば、七郎右衛門は年番名主役からも除かれることになっていた。ところが、翌年の願書では年番名主役の一員となっている。この変更の理由は、二通の願書の内容からでは推定不可能である。おそらく、七郎右衛門の進退をめぐって、村内では複雑な動きがあったのであろう。それは、新田開発の成否をめぐる論議・評価と、密接に関連づけられたものであったと考えられる。新田開発が予期した成果を容易に挙げえなかったことにより、村内の小農民たちの七郎右衛門に対する絶対的な信頼感は、動揺をきたしていたのであろう。すくなくとも延享二年の段階では、七郎右衛門は年番名主役からもはずされることになった。けれども、村名主の交代人事は、代官の承認を必要とする事項であった。代官川崎平右衛門は、新田開発の推進に積極的であった七郎右衛門を無条件に解任することには、反対であったと思われる。だから、延享二年の名主退役願は却下されたのである。
翌延享三年の願書は、村内の意向と代官の思惑との妥協策であった。これによって、七郎右衛門を含む五人の農民による年番名主制が承認されたのであり、七郎右衛門は年番名主の一人として遇されていくことになったのであろう。
こののち、七郎右衛門はしばらくの間、村政主導権を失うことになったが、経営的には村内の筆頭者として、さらに発展していくのである。