A 基本的支配

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 ここでは一八世紀を中心とした近世村落の概説を行なう。
 昭島市域における領主の配置は、元祿の地方直しによってほぼ確定した。拝島・田中・大神・上川原・宮沢・中神・築地・福島・郷地九カ村二八〇九石四斗三升七合は、幕領と一〇の旗本領・二つの寺領からなっていた。旗本・代官は江戸に居住ないし執務し、知行地・管轄地には家来を派遣して支配した。旗本の知行地は数カ所に分散していることが普通で、三〇〇〇石以上になると陣屋を構えたが、それ以下の中・小旗本のなかには支配権を幕府の代官にゆだね、年貢だけを収納するものがあった。旗本の支配権は幕府の統制を受ける場合が多いが、三〇〇〇石以上の者は大名並みに取り扱われた。代官は、幕府行政機構の勘定奉行に属し、手付(てつき)・手代(てだい)を駆使して年貢の徴収や農村の取締りを行なった(以下は児玉幸多『近世農民生活史』、地方史研究協議会『近世地方史研究入門』等を参照)。
 幕藩領主の農民支配の基本は年貢収奪にあった。ここでは、年貢に関する制度的な説明をすることにしたい。
 はじめに、貢租の基準をきめる検地について。検地においては、まず田・畑・屋敷の一筆ごとの地積を測量し、ついで地味その他を勘案して石盛(こくもり)を決定した。検地に使用する間竿(けんざお)は、太閤検地は六尺三寸を一間、幕府は慶安二(一六四九)年の検地掟で六尺一分を一間とした。間竿の短縮は石高の打出し、すなわち年貢増徴につながった。太閤検地はこの方法で従来の一反=三六〇歩の制を三〇〇歩に改めて、名目上の耕地を拡大し、年貢増徴をはかったが、幕府はそれをさらに強化したといえる。
 石盛は、斗代ともいい、検地によって公定された田畑・屋敷の反当たり標準収穫量のことである。石高制の下で租税賦課の基準となった。これを決定するには、田畑を地味の良し悪しによって上・中・下・下々にわけ、上田について四カ所ほど坪刈(つぼがり)を行ない、坪当たりの平均収穫量をみる。もしこれが籾一升ならば一反では三石になる。これを五合摺にすると一石五斗となり、これを石盛一五という。上田一五・中田一三・下田一一、上畑一三・中畑一一・下畑九・屋敷一三、というのが、近世の一応の標準石盛であった。田の方が畑よりも高く、屋敷は上畑と同一である。石盛は山崩・川成(かわなり)・地目変更などによって前の検地の時とは変化するのが普通である。地域によって、また領主によっても異なった。石盛もまた、年貢の増減に大きくかかわっている。
 分米(ぶんまい)は、検地によって耕地一筆ごとにきめられた石高である。石盛に反数をかけるとでる。分米を集計したのが村高である。また、耕地一筆ごとに年貢負担農民が決定された。かれらは検地帳に登録され、土地の耕作権を認められたかわりに、年貢負担の義務を負わされた。
 このようにして、貢租賦課の基本台帳としての検地帳ができる。昭島市域の場合現存するものの内では寛文検地帳がもっとも古い。
 次に、年貢賦課の方法について。免(めん)とは、年貢賦課率のことである。たとえば、免四ツは石高の四〇%の年貢が賦課される。免は時期・豊凶・地域によって異なるが、だいたい三ツから六ツ位で、検見(けみ)の結果をみて決定した。これは厘取(りんどう)とよばれるが、別に租率を決めない反取(たんどり)があった。一反につき米いくらという決め方である。この方法は関東に一般的で、昭島市域にはこれが多い。
 税法には大別すると、検見法と定免法(じょうめんほう)の二つがあった。検見法は、稲の収穫前に領主が村に役人を派遣し、稲穂のみのり具合を検査して、その年の年貢額を定める方法である。これは、収穫高に照応した年貢賦課のようであるが、実際には、それに要する費用が莫大で、検見役人の一行を迎える村の負担は大きかった。また検見役人が村のまいない(賄賂)によって年貢の査定に手加減を加えることもあり、領主にとっては年貢収納の減少する一因であった。これに対し、過去数カ年間の収穫高の平均を基礎として、年貢賦課の額を定め、その一定額を水損・旱損などの特別の場合を除いては凶作の年も変更しない定免法があった。近世前期には多く検見法が行なわれたが、中期に入り幕府の享保改革によって定免法が実施されて以降、しだいに全国的に普及した。これは領主財政の安定化と年貢の増徴が目的であった。すなわち定免年季の更進ごとに免の引上げを行なった。定免法は、農民にとっては凶作年の年貢負担は重荷であるが、豊作の年は手もとに剰余が残った。定免法は農業生産力の発展にともなって、農民に剰余を残す条件の一つとなった。
 近世では、年貢は村を単位に賦課された。村役人を通じて年貢・諸役を一村の総百姓の連帯責任で納めさせた。こうした制度を「村請制(むらうけせい)」とよんでいる。幕藩制成立期の兵農分離政策によって、武士は農村を離れて都市に居住するようになったために、それまでのように農民を個別的に直接支配する方式がとれなくなった。しかも石高制にもとずく米を中心とした生産物を地代として収奪するようになった。そのため在地性を失なった領主は、農民の生活や再生産の共同組織であった村を支配のための機構に転化させ、農民支配の実現をはかったのである。