B 年貢割付状

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 領主が決定した一村の年貢を村方に通達する文書を年貢割付状とよんだ。築地村の場合を例にあげて説明しよう。
 
    未歳御年貢可納割付之事
   巳より酉迄五ヶ年定免         武蔵国多摩郡
  一高六十石                 築地村
     内七斗三升二合    無地高
    此反別七町八畝廿歩
     田方三町一反六畝五歩
     畑方三町九反二畝一五歩
       右町歩訳
   上田八反五畝廿三歩  内七反三畝五歩 前々川欠引
    残一反二畝十八歩
   中田七反二畝十二歩  内四反四畝十二歩右同断引
    残二反八畝歩
   下田一町五反八畝歩  内二反五畝十二歩右同断引
   残一町三反二畝十八歩
       此訳
    一町二反三畝十三歩
    屋敷成永取
    四畝五歩
    去酉屋敷成永取
    五畝歩
   上畑七反八歩     内六反五畝八歩 前々川欠引
    残五畝歩
   中畑一町一反八畝七歩 内六反四畝九歩 右同断引
    残五反三畝廿八歩
   下畑一町四反一畝歩  内二反九畝二歩 右同断引
    残一町一反一畝廿八歩
       此訳
    一町七畝廿八歩
    前々川欠辰起返
    三畝歩
    前々川欠亥起返
    一畝歩
   下々畑五反廿五歩
   屋敷一反二畝五歩   内五畝三歩   右同断引
    残七畝二歩
      米七石一斗五升五合
    小以
      永二貫七七七文
   右同断
  一高三石九斗三升六合          同所新田
    此反別畑三町八畝廿四歩
      右町歩訳
   下々畑八反四畝廿二歩
   切畑二町一反五畝二歩
   芝地九畝歩
    小以永一貫六〇四文
   検見取              宝暦十一巳高入
  一高三斗二升二合            同所新田
    此切畑反別三反二畝六歩
     此取永三二文
      外
          子より酉迄十ヶ年季
  一永五十文         鮎運上
  一米三升九合        御伝馬宿入用
  一米一斗二升九合      六尺給米
  一永一六一文        御蔵前入用
      米七石三斗二升三合
    納合
      永四貫六二四文
  右者当年御取箇書面之通候、大小百姓無高下割合、霜月廿日を切而可令皆済、若其過於無沙汰者、以譴責可申付者也安永四年未十一月五日  伊半左(花押)
                        名主百姓
                                             (並木安子家文書)
 築地村は、村高一〇三石九斗三升六合、幕領と旗本岡部領の相給の村である。この年貢割付状は幕領の村に対して出されたもので、差出人の「伊半左」は代官伊奈半左衛門のことである。
 年貢割付状には以下のことが記載されている。
 村高 古田の村高は六〇石で、反別は七町八畝二〇歩である。内七斗三升二合は無地高である。これは高のみあってそれに相当する反別がないことをいう。他に新田が二ケ所高四石二斗五升八合・反別三町四反一畝あった。高六四石二斗五升八合、反別一〇町四反九畝二〇歩、これが本来築地村幕領分の年貢賦課の対象地であった。
 引高 ところが実際には荒地が多くそれ以下だった。史料中に「前々川欠引」とある。川欠引(かわかけびき)とは、河川の氾濫によって田畑の荒廃した部分に対し年貢を免除することである。この引高が田一町四反二畝二九歩、畑一町五反八畝一九歩、屋敷五畝三歩、合計三町六畝一九歩あった。実に四三・二%の耕地が年貢賦課の対象地から外されている。しかし、耕地として復旧すればふたたび年貢が賦課される。「前々川欠起返」とは荒地となった耕地を再開墾したことである。領主は年貢対象地の拡大のため起返(おこしかえし)を農民に勧めた。
 有高 以上の引高の残りが、現実の年貢対象地である。史料の「残」にあたる。田一町七反三畝六歩、畑一町七反二六歩、屋敷七畝二歩合計三町五反一畝四歩となる。新田は変化がない。
 年貢率 当村では安永二年(巳)から同六年(酉)までの五年間の定免法である。免は記載されていない。すなわち、これは「反取り」といって、租率を定めないで、一反につき米いくらという決め方をしたからである。この年貢割付状が反別の現状を詳細にしているのはそのためである。なお、宝暦一一年高入の新田は検見取である。
 年貢量 地積に反取を乗ずると取米=年貢量が決まる。「小以」がそれにあたる。田は米七石一斗五升五合、畑は永四貫三八一文であった。「永(えい)」は畑方年貢の名目的な呼称である。田畑にかかる正租は米で納めるのを原則とするが、地域によっては貨幣納=石代納(こくだいのう)が許された。関東の畑作地帯においては、永表示による金納が一般的に行なわれた。新田の検見取の分は永三二文であった。
 このほかに、鮎運上永五〇文と御伝馬宿入用米三升九合・六尺給米一斗二升九合・御蔵前入用永一六一文の高掛三役が課せられた。鮎運上は、築地村の農民が多摩川の鮎漁で利益を受けることに対する課税である。いわゆる小物成(こものなり)である。高掛物は幕領・私領を問わず村高に応じて課せられた。幕領では高掛三役といって右の三種類があった。御伝馬宿入用は、高一〇〇石に付米六升づつを納める。これは五街道の問屋・本陣の給米その他宿駅の費用にあてた。六尺給米は、高一〇〇石に付米二斗づつ納める。これは江戸城の台所で使役する六尺という男丁を徴発するかわりに納めさせた。以上は石代納であった。御蔵前入用は、高一〇〇石に永二五〇文づつを納める。これは江戸浅草の米蔵の諸入用にあてた。この三役は私領にはない。したがって、この三役が記載された年貢割付状の村は幕領ということになる。
 以上の年貢の合計が「納合」で、米七石三斗二升三合、永四貫六二四文であった。
 納期 これを一一月二〇日までに完納するように命じた。