D 鷹場支配

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 以上の年貢収奪を基本とした領主支配のほかに、昭島市域の農民たちは尾張藩の鷹場支配を受けていた。
 鷹場は、領主が鷹を放って狩猟する場所である。関東に入部した徳川家康が、しばしば鷹狩に出かけたことはよく知られている。それは単なる遊猟が目的ではなく、鷹狩に託して領内の民情や敵地の情勢を探ったのだといわれている(『目黒区史』)。
 家康時代には特定の鷹場は存在しなかった。鷹場の設定は、寛永五(一六二八)年一〇月で、このとき、江戸近郊五里(二〇キロメートル)以内の村々が幕府の鷹場に指定された。ついで同一〇年二月三日、尾張・紀伊・水戸の御三家に放鷹の地が下され、江戸から五里と一〇里のあいだに鷹場が設定された。その後鷹場は一時廃止された。すなわち、元祿六(一六九三)年一〇月一五日、五代将軍綱吉は生類憐みの令の趣旨に違反するとして廃止した。しかし吉宗は将軍(八代)に就任すると享保元(一七一六)年、尚武の気風を養てるために鷹場の制度を旧に復し、翌年五月一五日、御三家にも鷹場を再下賜した。そして、尾張藩は慶応三(一八六七)年四月七日鷹場が廃止されるまで鷹場支配を続けた。
 尾張藩の鷹場は第1図の範囲内であるが、それは多摩・入間・新座の三郡にわたり、寛政四(一七九二)年当時一八六ケ村がこのなかに含まれていた。そこには幕領をはじめ、数多くの旗本領の村が存在した。これらの村々を尾張藩はおしなべて鷹場として支配した。したがって、鷹場に指定された村々は、本来の領主支配のほかに、鷹場関係に限ってではあるが、鷹場領主の支配を受けた。すなわち、二重の領主支配下におかれたのである。

第1図 尾張藩の鷹場
伊藤好一「御鷹場と村」『大和町史研究』より転載(数字は鷹場境杭の数)

 昭島市域はいつから尾張藩の鷹場になったのか。『立川市史』所載の延宝六(一六七八)年正月二一日付の「御鷹場絵図」によると、砂川新田は尾張藩の鷹場村として記載されているが、柴崎村は記載されていない。また市域の九カ村も記載されていない。次に同書は鷹場再興後、尾張藩は「寛延元(一七四八)年八月には、入間郡坂戸村・扇町谷村より多摩郡青梅・二俣尾迄の地に替え、南武蔵新田より玉川筋迄(「尾州御用留」によると、拝島村より立川村まで十ケ村)を新場として拝領し、翌九月抗立ちをした」と記述している。これによると、昭島市域が尾張藩の鷹場になったのは寛延元年以降ということになる。

鷹場境抗(田中町矢島虎雄家所有)

 尾張藩の鷹場支配は、御鳥見組頭-鳥見役-御預御案内の系列で行なわれた。鳥見役は、鷹場村々の管理に当たった。常に鷹場内を巡回し、野鳥の繁殖状況を調べ、その障害となる物件の排除につとめるなど鷹場の整備に当たった。鷹場には鳥見陣屋が設けられ、一〇人の鳥見役がおかれた。昭島市域は、寛政六(一七九四)年立川村(柴崎村)に置かれた陣屋の支配を受けた。
 御預御案内は、鳥見役の指揮を受けて鷹場支配の末端を担った。かれらは地方の有力農民のなかから選ばれた。寛政四年当時小川東吾・高橋覚左衛門・粕谷右馬之助・船津太郎兵衛・村野源五右衛門の五人の御預御案内がおり、一八六カ村を分担して管理した。昭島市域は、村野源五右衛門預りの砂川村外二六ケ村中に含まれていた。村野源五右衛門の前任は、福島村の岩崎十蔵が安永六(一七七七)年から寛政元(一七八九)年までこの役を務めていた。御預御案内の小川東吾が御鷹御役所へ提出した寛政二年二月の「御尋ニ付書上」(『小川家文書』)のなかに、
  寛延四未年御新場之内多摩郡立川村小川彌五左衛門被召出安永六年酉年迄相勤候処退役被仰付、跡役同郡福島村岩崎十蔵江被仰付十三ヶ年相勤候処病気ニ付退役被仰付、寛政元酉年より同郡砂川村村野源五右衛門相勤申候、
と、当地域における御預御案内の推移を述べている。
 鷹場領主は、鷹場村々に対して年貢徴収権や司法・警察権などを行使する権限はもたなかったが、鷹狩目的にかなう範囲内で、村民の使役や法令の公布、鷹場法令の違反取締りなどを行なうことができた。尾張藩の鷹場法は、ほぼ一八世紀後半には確立した(伊藤好一「御鷹場と村」『大和町史研究』一)。
 鷹場は、村々に経済的な負担と生活上の不自由を強いた。『立川市史』によると、直接農民の生活を束縛した鷹場規制は以下の諸点であった。
 ① 鷹場通行のために道路橋梁などを整備すること。
 ② みだりに鉄砲を放ってはならない。
 ③ 冬田水包をしないこと。川沼の漁も八月以降四月までしてはならない。
 ④ 水車を造ったり、酒造業をはじめるには許可が必要である。
 ⑤ 新規の家作は、願い出て、鳥見役・御預御案内の検査を受け、鳥の居付きの邪魔にならない場所に限り許可する。
 鷹場内では鷹の餌になる野鳥や獲物の猪・鹿・兎などの獣類を追い払う行為は禁止された。水田に案山子(かかし)を立てること、水車の使用、家屋の新築などは、野鳥を驚かし野鳥が繁殖するための環境を破壊するとして、それらを行なうに当たっては許可を必要とした。また鉄砲は獲物を確保しておくために使用を制限し、許可を必要とした。そこには、鷹場領主の遊猟のための鳥獣の保護と繁殖とが意図されているのみで、農民の生活に対する配慮はみられない。案山子を立てることや鉄砲の使用制限は、農作物を荒らす鳥獣の横行を許し、引いては収穫に影響した。一八世紀後半になると、当地にも水車を利用した製粉業が展開する。水車や酒造業の制限は、発展途上にある農民の商品生産活動に阻止的に働いた。家屋の新築制限は、多摩川の洪水によって家屋流失の被害を受けやすい市域村々の農民にとってきわめて不便であった。鷹狩が行なわれたことは実際にはなく、ただ支配形態だけが続いた。やがて鷹場規制は形式化していくとはいえ、それが存続するかぎり、農民生活を束縛しつづけたのであった。
 そのほかに農民の負担は大きかった。鷹狩りのさいの勢子の役割、道・橋の普請、回村してくる鷹係役人の送迎および接待、連絡用の回状の送達などがあった。巡回にともなう飯料・油代・薪代・御用外の人足代などは、鷹係役人の自弁が原則であるが、実際には村に負担を強いることになった。村入用帳をみると、鷹場関係の入用の占める比率が高いことによってわかる。