A 村方三役

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 領主の指揮を受けて村の管理にあたる者を村役人といった。村方三役ないし地方(じかた)三役とよばれるのがそれで、名主(なぬし)・組頭・百姓代の三者からなっていた。村が複数の領主で分轄される相給の村では、それぞれ領主ごとに村役人がおかれていた。
 名主は村の長である。関東は古くは名主の家が固定していた。しかし、百姓のためによくないことが多いので、享保ごろから一代勤め、または年番名主といって、一村の内で名主役を勤めるほどの家柄の百姓を撰んで、一年づつ順番に名主役を勤めるようにした(『地方凡例録』)。たとえば上川原村についてみると、「享保二酉年迄、三郎兵衛先祖八右衛門・市蔵先祖平右衛門両人にて名主相勤、当名主七郎右衛門先祖兵三郎・源左衛門先祖源左衛門に名主役相譲」(指田万吉家文書)と、享保二(一七一七)年に八右衛門・平右衛門から兵三郎・源左衛門への名主役の交替が行なわれた。ところが延享二(一七四五)年一二月、翌年一二月と連年、名主七郎右衛門の「定名主」退役と「跡役之義ハ組頭四人之者共方江年番ニ被為仰付」るようにとの歎願が惣百姓連印で川崎平右衛門代官所に出されている(指田十次家文書)。要するに享保二年の名主役交替後、定着しなかった年番名主制がこのごろになってようやく小百姓の下からの突き上げが激しく、制度化するようになった、といえ、寛政九(一七九七)年四月の村方書類引継の史料によると、七郎右衛門・源左衛門両家の間で年番に名主を勤めている。このように、名主の家は必ずしも固定的ではなかった。
 名主は村政に関する一切の事務を扱った。年貢の納入・道橋堤防の普請・戸籍・宗門改などに関することのほかに、村民の生活上の世話にまで及んだ。村民の土地の売買・質入にもその証印が必要だったし、領主に対する訴願にもその奥印が必要だった。そうした任務に対して名主給として給米が支給されたが、高引と称して年貢を減額される場合が普通だった(年貢皆済目録を参照)。名主の家は役宅と称してそこで村政を取り扱った。
 組頭は名主を補佐した。そのことは、前述した上川原村の名主退役の歎願書からわかる。昭島市域では、組頭の名にかえて年寄と称した場合もあった。『地方凡例録』によると、「元来五人組の頭分(かしらぶん)を致し、今は百姓の内筆算致し、人品宣(ひとがらよろし)く、高も相応に持ち用立つべき者を、村の大小に依て五人三人充(づゝ)、入札か又は総百姓相談等にて極め置、名主の下役にして領主地頭の用向并村用をも勤む」。はじめは五人組の組頭を兼帯した場合もあったが、のちには無関係になった。組頭は村内で名主につぐ高持百姓から複数選ばれるのが通例で、ときには年番で勤めた。明和三(一七六六)年正月の上川原村の惣百姓が連印した「御鷹場御法度証文帳」に「当番組頭」「組頭非番」といった肩書がみられる(指田十次家文書)。
 百姓代は名主・組頭層による村政運営を監視する役割を持った。百姓代の設置は名主・組頭より遅く、小前(こまえ)百姓の発言権の増大とともに登場した。『地方凡例録』には、「名主・組頭の外其村にて大高持の百姓一人を極置き、尤も村により二人三人あるもあり、是は名主・組頭へ百姓よりの目附なり、村入用其外諸割賦物等の節は立合、大高を持たる百姓承知の上は小高の者申分なき為なり」とある。また小前百姓が名主へ要求や歎願をするときには、百姓代を通じて行なうことになっていた。百姓代も複数おり年番で勤めた。
 村政に関する一切の書類は名主の役宅に保管され、年番交代の時には引継ぎが行なわれた。その引継書類をみると、村の基本帳簿がわかる。それは同時に、近世村落の農民たちの主たる関心事を語っている。寛政九(一七九七)年四月、上川原村の名主源左衛門・年寄丈助・百姓代権左衛門が連署して七郎右衛門の後家おむらへ差し差した覚は、七郎右衛門よりの書類引継ぎを確認したものであるが、その諸帳簿は第1表のとおりであった。本田御水帳、新田御水帳は、それぞれ寛文検地帳、元文検地帳を指している。年貢関係(検地帳・名寄帳、勘定帳・皆済目録)、村政(村入用帳・稗穀帳)・村況(村鑑帳・絵図)関係に集約される。

第1表 村の基本帳簿