村落の農民編成の末端組織として五人組があった。
その起源は古く、中国周代の人民編成方式としての卒伍にあるといわれている。これは、五人一組を伍と称し、一〇〇人一組を卒と称した。日本の古代律令国家もこれにならい、五保の制といって隣接する五戸で構成し、納税・防犯などの連帯責任を負わせた。
戦国時代、下級武士の軍事編成や豊臣秀吉の京都市中の治安維持のための組織に五人組があった。慶長二(一五九七)年三月七日の秀吉の「御掟」によって、「侍ハ五人組、下人ハ十人組」を単位に連判して、辻切・すり・盗賊などの悪逆をしない旨を誓約するように命じた。この「御掟」が、江戸幕府の五人組制度の直接の起源であるといわれている。
幕府が五人組制度を実施した時期については法令上明確にはわからないが、ほぼ元和~寛永期(一六一五~四三年)であった。なかんずく寛永一〇年代は、五人組の制度が全国的規模で実施された。制度化を必然化した原因について煎本増夫氏は、「幕藩領主階級が、寛永年間において五人組を制度化した原因は、キリシタン禁制・浪人取締りが主であったのではなく、幕藩領主階級による農民内部の治安・年貢納入・潰地など協同耕作の連帯責任制の強化が必要とされたところにある。」(「五人組と近世村落」『駿台史学』三一、五人組については当論文に拠っている。)と主張している。
幕府は寛永一四年一〇月二六日、関東八ケ国と伊豆・甲斐・信濃三国に知行地をもつ領主に対し、悪党取締りに関する法令を出した(『徳川禁令考』)。冒頭、「従二此前一被二 仰付一候五人組、弥入レ念可二 相改一事」と、五人組の強化が命じられた。これは、領主の苛政に対し島原・天草地方の農民が、いわゆる島原の乱を起こす(同年一一月蜂起)直前である。当時、関東の農村でも一揆が勃発するような不隠な情勢がみられたために、それを阻止する手段として五人組の強化がはかられたのである。在々所々に「悪党」が発生しないように、村単位に申し合わせて常々糺明することを命じた。もし「不届成もの」があったら五人組はもちろん、ことによっては一村の罪とした。「悪党」とは、支配体制の秩序をゆるがす者のことである。
第四条に、左記のごとく命じている。
一御料・私領共に、或新田郷中え越来るもの有之時ハ、もとの出所能々相改、慥成者ニて、於レ無レ構(かまい)は、可二指置一事、
これは、新田村や既存の村へ来住する者があったら、先の住所をよく確かめて、身許が確かならば居住させてもよい、といっている。当時は新田開発がさかんで、たとえば尾張藩では寛永一二年三月、入鹿池新田の百姓をうるために、「御領分中并他国他領之如何様之重罪たりといふとも、其咎を免許被下置候間、新田伐起望之者於有之ハ、前件之趣申聞、呼越候様可致者也」という高札を立てた。つまり、自他領の者を問わず、またいかなる重罪の者でも罪を許してやるから新田に来て百姓になるようにと、百姓の誘致に努力した。第四条は、科の者の罪を許してまで新田百姓を取立てることの行き過ぎに歯止めをかけたものであるが、こうした異常事態の背景には、農業労働力の払底という事情があったのである。近世初期には爆発的に耕地が増大し、それにともない、いわゆる小農自立が進行した。そこには不安定な経営基盤しか持たない大量の小農民の存在が想定されるのである。領主の苛斂誅求と折しも寛永の飢饉が復合した時、村落が動揺し、そこに悪党が出現する条件はあった。煎本増夫氏は、武州多摩郡芋久保村(現大和町)の「寛永六巳年改本田御検地帳写」によって近世農民の構成を分折し、「要するに半ば独立的な経営をもつ近世農民が村の中心をなしている事実を指摘できる。五人組は連帯制の性格の故に、このような半ば自立した近世農民の一般的存在を前提にして制度化されたといえるのである。」(前掲稿)と指摘している。
昭島市域における五人組関係史料の初見は、旗本の中根氏が知行地の宮沢村に対して与えた、延宝八(一六八〇)年三月の覚である。それは「五人組申付候節諸事申渡ス覚書之帳」に所載されている。市域九ケ村における小農自立は第一章第二節で述べたように、寛文七(一六六七)年に実施された幕府の総検地をピークとした。当史料が出された背景には、そうした小農民の大量の創出が考えられる。
当史料は、五人組の再編成の度に読み聞かせ、遵守させるべき法規を定めたもので、いわゆる五人組帳前書に該当する。以下、内容を摘記しよう。原文は(史料編七)を参照されたい。
前文 公儀(幕府)の法度(はっと)を遵守すること。
一 キリシタンは禁制である。毎年正月一五日以前に宗門人別改めを行ない、宗旨を肩書に付して五人組帳を取置くこと。
二 堤川除普請は毎年正月よりはじめること。
三 盗賊・殺害人の穿鑿に精を入れること。
四 山林居屋敷の竹木をみだりに伐採しないこと。
五 鳥獣を許可なく殺生しないこと。
六 祭礼を華美にせず、かつ無益に農業の隙をつぶさないこと。
七 婚礼に乗物の使用を禁ず。参会者は五人組の者に限り、料理は一汁三菜肴二種に制限すること。
八 葬礼・年忌の仏事を華美にしないこと。五人組以外は親類も招いてはならぬ。
九 家屋敷には、居所・寝所・雑穀置場・養蚕室以外のものを設けてはならぬ。
十 衣食は、庄屋は絹紬木綿、平百姓は布木綿を用い、雑穀を常食とすること。
十一 庄屋・組頭に無断で他所に逗留しないこと。
十二 浪人を村に抱え置かないこと。
十三 宿屋の外は親類以外の者を村に宿泊させぬこと。
十四 遊芸人・諸勧進・乞食などにみだりに村を徘徊させぬこと。
十五 賭事・博奕は禁止する。
十六 田畑は惣領一人に譲与すること。田畑の他村質入は禁止。やむをえない事情があり、しかし近年中の請返しが可能ならば許す。永代売買は禁止する。
十七 耕作入精の百姓が病気・火事・盗賊その他不慮の災難で進退きわまった時は年貢を免除すること。持高不相応に子供親族を養い、耕作無精で進退きわまった百姓には、不必要な人数を減じ、田畑の稼ぎ方を教えて経営の成り立ちをはかること。もし意見に従わない場合は、子供・親族を売って未進を済まさせ、その後は、一、二人を養うほどの二、三反の土地を預け、年貢を務めさせること。
十八 親不孝者・博奕・大酒飲みなどは代官に届け出ること。年寄・身障者などの生活がたとえ田畑がなくとも成り立つように配慮すること。
十九 新規の酒の小売は禁止する。
二十 代官の非分は家老方へ目安を差し出すこと。
二十一 領主の諸法度を遵守すること。
二十二 代官に対する進物は禁止する。出張役人の接待は、侍は一汁二菜、小者中間は一汁一菜にかぎること。
以上である。これを整理すると、
法度の遵守 前文・二十一
キリシタン取締り 一
治安対策 三・十一・十二・十三・十四・十五
土地移動の禁止 十六
年貢納入 十七
相互扶助 十八
奢侈禁止 六・七・八・九・十・十九
普請関係 二・四
代官の非分防止 二十・二十二
となる。これはさらに、異教徒・犯罪人の告発・防止と、年貢の確保との二つに大別することができる。五人組の機能はこの二つの連帯責任制にあった。