昭島市域の村々は、江戸の日本橋から西へ一〇里余(約四〇キロ)、武蔵野台地の西端、多摩川に沿った地帯にある。近世には「玉川通」・「玉川端」・「武蔵野際」などとよばれた地域である。
そこに、近世村落九カ村があった。多摩川の北岸にそって西から、拝島・田中(作目村を含む)・大神・宮沢・中神・築地・福島・郷地の八カ村と、拝島・田中・大神・宮沢に囲まれた上川原村とである。これらの村々は、江戸周辺地帯の例にもれず幕領・旗本領が錯綜し、上川原村を除いていずれも二~三給の入組み支配下におかれていた(第一章第一節)。またこれとは別に、尾張藩の鷹場としての支配をもうけていた。このように、村は二重の領主支配をうけていたのである。こうした領主の分割支配の反面、生産の場においては前記八ケ村は柴崎村(立川市)と、多摩川から取水した用水の「九ケ村組合」をつくっていた。また上川原村を含む市域九ケ村として鷹場組合をつくっており、近世を通じてほぼ一つのまとまった地域を形成していた。市域外の村々とは、幾筋かの道で結ばれていた。段丘崖線に沿って、もっとも古い「五日市道」とよばれていた小道が通じ、市域内の村々を結び、さらに、東は柴崎村(立川市)へ、西は熊川村(福生市)へつづいていた。また台地上のほぼ中央を東西一直線に「府中街道」(「青梅道」)が通っている。東方向は、府中から甲州街道をへて江戸へ一〇里で直結した。西方向は、拝島をへて青梅(三里半)・五日市(三里半)など、多摩山地と関東平野の境の渓口に分布する在方市へ結ぶ。さらにこれらを江戸へ直結する青梅街道・五日市街道が、市域境の北方を通過している。各村の畑地帯を北へぬける小道は、すべて五日市街道へも通じている。南方向は、通称「大山道」が築地から日野(一里)へ、拝島から八王子(一里半)へ、それぞれ多摩川を渡る道があった。八王子から拝島へ結ぶ道はさらに北へのび、日光御番衆の千人同心が通行する往還道であった。