B 村落の形態

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 市域村々の形態は第2図のとおりである。この地図はここにはみえないが立川村を甲武鉄道(明治二二年開通)が通過し、一方まだ青梅鉄道が開通(明治二七年)していないのでその間の作成と思われるが、ほぼ近世後期の村の形態とくらべて大差ないものと思われる。

第2図 近世後期の市域村落形態
(中村保夫家文書)

 それによると村は、ほぼ南北に短冊形に伸びている。これは、当市域にかぎらず「玉川通」=「武蔵野際」地帯に属する村々の特徴でもあった。すなわちこのことからこの地域の村々の類似した開発の跡がしのばれるのである
 この地域は典形的には三つの特徴的な地形をしている。(一)多摩川に面した各村南端部の低湿地、(二)三段ほどの段丘面(拝島、青柳、立川の各段丘)、(三)北端部の平坦な武蔵野台地、である。郷地村を例にそれらの様相をうかがってみよう(第3図)。

第3図 郷地村絵図
(紅林義夫家文書)

 最下段の低湿地には、湧水に多摩川の分水「九ケ村用水」をあわせた用水路が三~四本、各村を貫流している。各村ともここに早くから水田を開いてきたが、洪水をうけやすく、近世を通じてほとんどが下田・下々田の劣悪地であった。面積もあまり広くなく、耕地全体に占める比率も低い。第一章第二節でみた各村の村高の推移から判断すると、市域東半の村々(宮沢、中神、築地、福島、郷地)では、近世以前から漸次営まれた開発が、正保期(一六四四~四七年)までにほぼおわっている。西半の拝島・田中・大神三ケ村でも寛文期(一六六一~七二年)までにはおわっている。
 水田地帯の北端は、段丘崖線にそった自然林で、湧水を求めてその上または下に、集落が短い帯状をなして存在していた。
 段丘面上は畑地と林である。畑地は、市域東半の村々では寛文期(一六六一~七二年)以前に開発がほぼ完了しており、西半では寛文以降~元祿初期(一六七三~一七〇三年)に開発がすすんだ(第一章第二節第9表参照)。
 各村北端の武蔵野台地面には、人家もなく「山」と称する林野と、享保期に開かれた持添えの「武蔵野新田」とが広がっている。大神町の南享保新田(八九五~九六〇番地)・北享保新田(九六一~一〇五九番地)、田中町の北野新田など今日字名として残っている。新田といっても、下畑・下々畑・切畑・林畑・萱畑に位付けされた畑地のみである。北端を玉川上水とその分水の柴崎用水が通過しているが、一部の水車などを除いて、市域各村では利用されていない。玉川上水は、江戸の飲料水を確保するために、羽村で多摩川を堰入れ、承応三(一六五四)年開通した。芝の町人玉川庄右衛門・清右衛門兄弟が請負った。
 以上のように市域村々は、南端の低湿地-段丘面-武蔵野台地へと時代をおって開発をすすめていった。
 村々のうち田中・上川原・築地の三村は、他とくらべて村の形成に若干の特徴がみられる。この三村は「玉川通」に位置する村々に共通する固有の歴史を有している。すなわちそれは、多摩川の洪水による村の流失ということである。
 上川原村は、むかし多摩川沿岸に集落を構えていたが、多摩川の大洪水で村が押し流されたために、替地を現在の地に求めて移住してきたといわれている。現在の田中町の三〇~四〇番地に至る地域を中川原、その西方の拝島町の三八〇~八〇二番地に至る地域を下川原の小字名でよんでいるので、かつての上川原の場所は、田中町の浄土下から大神町の前田にかけての地域ではなかっただろうか。田中村・大神村の南側に位置していたと思われる。その移転の年代は明確に判明しないが、上川原の日枝神社の創建が天正七(一五七九)年と伝えられるので、それをさかのぼらないころと考えられる(「上川原開村のいわれ」『郷土研究』四)。ところで集落の移転に当たっては当然、既存の村の地が避けられたに違いない。となると、田中・大神両村より北側に開村したはずである。そして、強いて中世末期の昭島市域の開発状態を想定すると、上川原村と大神村の村境を東西に延長した線上の南側が、人々の居住地域であった、ということになろう。このことは、大神村は、寛文八(一六六八)年の武蔵野新田検地までに上川原村の北側に開発をすすめていた(第一章第二節三)。すなわち、現在の大神町古新田の地域である。また、上川原村の武蔵野新田はそれを越えてさらに北側に開かれたことなどから推測されるのである。
 田中村のなかには作目村の地が含まれていた。現在の田中町字城東がそこに該当する。作目村はかつて田中・拝島とは多摩川を隔てた対岸の山麓に居村を構えていたが、文祿・慶長(一五九二~一六一四年)のころ、多摩川の洪水によって田畑家屋ともに押し流されたために、多摩川を越えて田中村の地に移転し集落をなしたといわれている(『新編武蔵風土記稿』)。ところで、幕末の儒者塩野適斎は、その著『桑都日記』において、「貞享二年の秋玉川大水にて作目村流失、当時家数七十戸田園石瀬となる。住民は田中村と大神村との間に十一戸、横山郷に二戸、拝島村に七戸、東光寺へ四戸、回田村へ三戸移る」と記述している。しかし、貞享二(一六八五)年に家屋七〇戸流失したというのは、それ以前の流失・移転のことを考えるとにわかには信じがたい。しかも、正保の『武蔵田園簿』には作目村はみえないことを考えると、ここでは『桑都日記』よりも成立年代の古い『新編武蔵風土記稿』の記述に従っておきたい。
 ともあれ作目村は多摩川の洪水で耕地と家屋を押し流され、村民は四散し、そのうちの一一戸は田中村に移住、作目村の地は田中村に付属せしめられたのである。『新編武蔵風土記稿』は、「其地は田中村の南にして拝島村に堺ひ、東は谷地・平・大神三村に接し、西は高月村にとなり、南は滝山・八日市の二村なり、境堺田中村と混じてつぶさに区別すべからず、家民も亦雑居して当村の分十一軒あり、旧地は今東西七百歩、南北二百五十歩許の河原となれり」と記載している。
 しかしながら作目村は、歴史の上から完全に消滅してしまったわけではなかった。たとえば、正保の『武蔵田園簿』にはあらわれないが、慶安五(一六五二)年には高林十右衛門某が検地を行なっている(『新編武蔵風土記稿』)。また、享保六(一七二一)年「武蔵国多摩郡之内山之根九万石村高改帳」(『八王子市史』下巻)によると、作目村五一石七斗九升一合は高林与五右衛門の知行地である。さらに文政一〇(一八二七)年一〇月「組合村々取締方議定連印帳」(小池清家文書)には、高林又十郎知行所作目村高五一石七斗九升一合、名主幸次郎・百姓代兼組頭定右衛門、と記載されている。このように作目村は、「御開国の初今の高林又十郎某先祖某へ、甲州元知行替地として、当村並に上総国にて二百石を賜はりしより、世々某家の采地」(『新編武蔵風土記稿』)であり、村役人制度もたっていた。要するに作目村は、その地は田中村に付属せしめられ、独立の村として成立するだけの基盤はないけれども、支配の単位としては旗本高林氏の知行地として残り、年貢納入のために村の体裁と機能とを備えさせられていたのである。こうした作目村の存在はまさに、石高制を基礎において年貢村請制をとった幕藩制社会の特質をあらわしている、といえる。
 築地村は中神村のなかに点在する形で存在している。築地村もまた多摩川の洪水にしばしば耕地と家屋を押し流された村であった。『新編武蔵風土記稿』に、「村名の起りは当村は他の村と違ひ、一村殊に離れて多磨川岸に臨めり、全く新に築き立る地形に見ゆれば、その故の名なるべし、さればつき地と唱ふべきものを今つい地といふ、新開なることをあらわに知らるゝを嫌ひての唱へならんと土人いへり、中神村に住める民の話には、其村の築地にて検地帳ももと中神村にありしといふ、しかしながら開墾の年代も伝ざれば、慥なる証左となしがたし、」と記載されている。
 正保期の築地村は、村高九九石五斗一升(田五〇石三斗一合、畑四九石二斗九合)であった。市域内でもっとも早く開発のすすんだ東半の村々が、宮沢村四二四石九斗、中神村三二九石五斗三升五合、福島村三七八石四斗、郷地村二〇八石、であるのにくらべて、いかにも村高が低く、開発の新しさを感じさせられる。「検地の年歴を伝へず」(『新編武蔵風土記稿』)、事実寛文検地帳も現存しないところをみると、案外、「其村の築地にて検地帳ももと中神村にありし」という「中神村に住める民の話」が事実に近いのかも知れない。
 築地村は、現築地町の向田を中心に田中・矢崎に位置していた。そこは、「一村殊に離れて多磨川岸に臨めり、全く新に築き立る地形」に該当する。多摩川のいつの洪水であったかは明らかにしえないが、少なくとも寛文期(一六六一~七二年)以前、武蔵野の新田開発が本格化する前に、洪水で村を流され現築地町仲平の地に移住してきたのではなかったか。当時の中神村の北側の地にである。元祿一二(一六九九)年七月の築地村幕領分の年貢割付状(並木安子家文書)をみると、本田高六〇石のほかに、高三石九斗三升六合の武蔵野新田に対し永八五三文の年貢が賦課された。この新田は、寛文八(一六六八)年に行なわれた武蔵野新田検地のそれである。なお元文元(一七三六)年大岡越前守忠相によって検地が行なわれた持添の築地新田は、七町一反八畝一八歩・高一一石七斗一升であった。これらの事実は、仲平の地への移住が寛文期以前に行なわれたであろうことを推測させるのに十分である。
 本来の築地村の地にも依然、人々は居住していた。そしてまた幾度となく多摩川の洪水に見舞われた。文化八(一八一一)年の大洪水は、多摩川沿岸に残っていた築地村の地を一朝にして流失せしめた(『昭和町誌』)といわれている。現中神町のうちに散在する築地町横道・中原・和田・矢崎などの飛地は、洪水で土地・家屋を流された築地村農民たちが確保した代替地である。その場所が中神村地内に限定されていることは、やはり築地村と中神村との因縁の深さを感じさせられずにはおられない。
 以上のように、築地村と上川原村は、かつて多摩川岸にあり、洪水によって村を押し流され、居村を現在地に移したという相似た運命をたどっているのである。