C 村の概況--田中村の場合--

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 村落の概況を知るのにもっとも便利なものとして村明細帳がある。これは村鑑帳・村柄書上帳・村差出明細帳など種々のよばれ方がある。村明細帳は村の状態を村高・貢租・用水および普請・山林入会・家数・人口・牛馬数・農間渡世などについて調査して役人へ差出したものである。
 ここでは寛政一一(一七九九)年一二月、関東郡代配下の勘定方役人の廻村にさいして作成された、田中村の「品々書上帳」(史料編三〇)によって、この時期の同村の概況をみてみよう。
 田中村は太田志摩守の知行所であった。村高は一一七石五斗三升八合で、別に高一七石三斗の持添新田がある。本田は寛文七、八両年に雨宮勘兵衛の検地を受けた。八年は武蔵野新田のそれであった。また武蔵野の持添新田は、元文元年大岡越前守忠相の検地をうけた。その反別は七町七反歩で、うち下畑二町九歩石盛四、下々畑七反一五歩同三、林畑二町一反八畝三歩同二、野畑二町八反一畝三歩同一であった。年貢は下畑は一反に付二四文・計永四八〇文七分、以下下々畑反二二文・永一五五文一分、林畑反一六文・永三四八文九分、野畑反一四文・永三九三文五分、であった。
 田中村は江戸から一〇里余に位置し、東西三町四〇間、南北一六町一〇間ほどの広さである。東は大神村、西は拝島村、南は作目村、北は上川原村と境を接している。村は全体に平地で打ち開いた広場や険阻な場所はない。土質は黒土・赤土混じりの麁地である。特に水田は砂混りでしかも土が浅い。
 村内に大きな街道は通っていない。道筋に商家の類はない。渡船場・作場渡などもない。また近くに町場もない。村には市場はなく平日の賑いもない。八王子がもよりの市場で、四、八の日に市が立つ。
 村は御挙場・御餌飼場ではないが、尾張藩の鷹場なので鷹場御用を勤めている。また、日光御番の八王子千人同心が通行のさいは、拝島村へ年間人足四〇人余、馬六疋余の助郷役を勤めている。
 現在、村の家数は三四軒で、人数は一六九人、うち男八一人、女八八人である。ほかに馬が一〇疋いるが、牛はいない。なお農民以外の医師・修験・神子・浪人・瞽女・座頭・鉦打之類・道心者などはいない。
 村では五穀の外に大麦・小麦・藁麦・芋・稗などを土地柄に応じて多く作っている。菜・大根・荏は少し作り、その他は作っていない。田畑の種物は、粳米に七徳・あらき・餅米はどてにし・上総もち、大麦は穂長・青はだ、小麦はあみだし・白から、稗はやりほ、粟粳は石割、餅は粟の花・白ぐき、胡麻は白ごま・黒ごまを作っている。
 肥料は、まぐさや木の葉を腐らせて下肥にしている。糠灰も用いるが、その量は一反に付糠の八斗俵一俵ほどである。田方の肥料は、大麦・から木の葉を腐らせて下こやしにし、下こいはめからなどを用いている。
用水は、多摩郡熊川村地内より多摩川の水を引入れている。圦(水門)は八丁ほど下の拝島村地内にある。なお、拝島・田中・大神・宮沢・築地・中神・福島・郷地・芝崎の九カ村で組合を結成している。
 御普請所は、拝島村地内の九カ村用水の圦一ケ所と、村前の川除御普請所で同用水路の悪水除圦一ケ所である。
 村内に砂石・菜種・鳥獣の類で特別かわったものはない。畑には桑を植え、山林には松・雑木の類を土地相応に仕立て、そのほか槻・栗・杉などありきたりの木以外はない。
 一般に当村では農業の合間に、男は山方の村から炭を買出して江戸表へ送り出し、女は蚕を飼い絹・青梅稿を織るなどの渡世稼ぎをしている。農業外の酒造・水車・絞油業などを営む者はいない。大工と酒・菓子の商いが各一人いるが、それも農間稼ぎに行なっているに過ぎない。村内に分限者はいない。
 村内に名所・古蹟・古城跡はない。また古書画・珍翫の品を所持する者はいない。
 御朱印地はない。村内の寺社は、等外庵と稲荷社である。等外庵は拝島村竜津寺の末庵で、宗派は禅宗。正観世音を本尊とするが、その作ならびに開基・開山などは不明である。稲荷社は拝殿はない。小社で縁起・祭礼などもない。これは村持である。
 後家・やもめで極貧窮之者や廃疾・片輪で働けない者はいない。褒賞に価する忠孝の者・奇特な者もいない。
 以上のように村明細帳は、現在の市勢要覧にたとえられるが、その村の概況を子細に語っている。しかしその内容は、時代によって、あるいは作成の意図・提出先によって若干異なることがある。ことに村明細帳の提出命令が、年貢収奪基盤の拡大を意図しているばあいには、作成する側の村に自分たちの利益を守ろうとする意識が働き、そのために記載内容に手心が加えられることがありえたのである。