D 用水

793 ~ 802 / 1551ページ
 水田稲作にとって、「山」と「水」は不可欠の存在である。すなわち「山」は、水田耕作にとって基本的な肥料である刈敷・草木灰などの採集源であり、「水」は水田の灌漑用水のことである。
 昭島市域の村々を貫流する九ケ村用水は、拝島村の西、熊川村の地内で多摩川の水を堰入れていた。堰からおよそ八丁ほど下の圦(水門)から拝島村にはいり、各村の水田を灌漑して、末は柴崎村の地でふたたび多摩川にはいった。用水堰の熊川村下から流末の柴崎村まで二里(八キロメートル)ほどの距離であった。拝島・田中・大神・宮沢・中神・築地・福島・郷地・柴崎の九カ村で用水組合を組織し、用水路の管理・修補にあたった。
 九ケ村用水の成立年代ははっきりしないが、延宝ごろ(一六七三~八〇年)にはすでにできていたらしい。市域における水田の開発状況をみると、正保期(一六四四~四七年)に東半五ケ村の平均が一六九石七斗であるのに対し、西半三ケ村(上川原村を除く)は二九石七斗であった。その後、元祿期(一六八八~一七〇三年)にかけて西半の村々で開発がすすむが、東半の村々は停滞気味であった。このことは、正保段階では市域西半においては用水が未整備であったが、その後、近世村落の形成とともに九ヶ村用水が整備されていったことを推測させるのである。
 九ケ村用水組合はもう一つ、玉川上水の分水を用水としていた。これは、拝島村が民家の呑水とするために、元文五(一七四〇)年願い出てできた。これについては文化二年、呑料として金一両を上納している(清水貞男家文書)。分水は村の北より玉川上水を引き入れ、西の方より宿なかの小川を東流して、末は田方の用をなした(『新編武蔵風土記稿』)。分水口より流末までは二六町、田中村の地で熊川村で堰入れした用水路と合流する。用水路については第2図を参照してほしい。
 用水で問題になるのは堰の位置(取水口)と番水(水の配分)である。それをめぐってしばしば、村々間に水論が発生した。それについて二つの争論をとりあげてみよう。
 宝永七(一七一〇)年に拝島領九ケ村と日野領七カ村の用水堰をめぐる争論が起こった。正徳二年四月四日の「武州多摩郡拝島領九ケ村与同郡日野領七ケ村用水堰論裁許」(史料編四五)によると、争論の概略はこうである。拝島領九カ村用水は前々から拝島村前に用水堰を築き、多摩川の水を引き入れてきたが、宝永七年三月、日野領七カ村が古来平村(日野領)前二カ所に堰を築いてきたのに反し、拝島領側の堰よりも上流に新しい堰を築いた。これが論争の発端で、拝島領側が訴え出たのである。
 そこで検使役人が出張し、実地検分が行なわれた。その結果、(一)拝島領九ケ村用水堰は新堰である、(二)秋川は日野領七カ村に用水権がある、という日野領側の主張が通って、一まず和談になったが、拝島領側は不服であった。
 そこで、拝島領側は再訴願した。中神村名主次郎左衛門が差し出した正徳元(一七一一)年七月の「乍恐口上書を以奉願候」(『立川市史資料集』第五集)によると、以下のごとく反ばくした。(一)について、拝島領九カ村用水堰が古堰に相違ないことは、
  二十五年己前同領堰論之節御評定様より頂載仕候御証文絵図之面ニも拝島前々堰籠形御座候、
と、貞享年中(一六八四~八六年)の芝崎・築地・宮沢三カ村水論における裁許状の絵図に、拝島村前に堰籠形が記されていることからわかる。また(二)については、
  秋川之儀先年満水ニ而滝村高築村田地中押抜拝島領堰下ニ而玉川江落合与申候所へ御見分之節十ケ年以前落合絵図之面江御書付被成双方より印形仕候………印形御取被成候所古落合ニ而日野領用水ニ取来候ハゝ十ケ年余以前滝村高築村より川除御普請仕候節日野領より構可申上所ニ新川ニ而御座候故構不申唯今ニ罷成新堰を仕拝島堰江構候義迷惑至極ニ奉存候、
と、秋川は一〇年前の洪水のとき、滝・高築両村の田地を押し流して拝島領の堰下に、新しい流路を開いた、もし日野領が秋川を堰入れて用水に利用してきたのなら、一〇年以前に滝・高築両村が秋川の川除普請(堤防を堅固にし、河川の底をさらい、氾濫を防ぐ工事)を行なったさいに、日野領より故障(構(かまい))を申し立てるべきところを新川だからといってしなかった、つまり自己の用水権を認めていなかったのに、今になって新堰を築き、拝島領側の堰の故障になっている、と。
 ところが検使役人との間では一向にらちがあかず、次郎左衛門は八月一三日、問題を評定所へ訴え出た。評定所は、寺社・勘定・町の三奉行と老中一名を加えて構成される幕府の訴訟裁決機関である。訴訟の焦点は、「秋川之儀日野村用水川与申上候儀大之偽ニ御座候」という点にあった。検使役人との交渉経過を説明した上で、次郎左衛門は、
  玉川者大川ニ而御座候故、堰先少茂明キ申候而者、其所ヲ即時ニ押堀用水一切上り不申候、拝島領堰より上下ニ堰場数多御座候而、川幅不残籠堤仕候得共抜水洩仕り、拾町も川下ニ而者元之大川与罷成り、殊ニ日野領両堰江者三四拾町余も御座候、其外浅川両堰都合四堰ニ而用水取候得者、日野領渇水可仕様無御座候、拝島領之義者九ケ村壱堰ニ而用水取候得者、万々一堰先明キ候様ニ御裁許御座候而者、拝島領永代水仕(不足、脱カ)候間、何ヶ度も御訴訟仕候、憐御慈悲ニ滝村高築村之者共被召出新川古川之訳御尋被遊上下秋川用水ニ被下置候ハゝ、別堀ニ而水引候而、堰先明キ不申候様ニ為仰付被下候ハゝ、難有奉存候、(同前)
と、川幅一杯に堰を築かないと、つまり一部を開けておくと、そこから堰全体が押し崩されて用水をえられなくなること、また堰を築いても「抜水」があり、一〇町も下流にいくともとの水量にもどることなどを指摘した上で、日野領の二つの堰は、拝島領の堰の下流三、四〇町の場所にあるので、しかも他に二つ堰があるので日野領の村々は渇水の心配はないが、拝島領は九カ村が一つの堰に用水を頼っている実情なので、堰の部分撤去を命じられると拝島領の村々は永久に水不足に見舞われてしまう、もし秋川を日野領の用水川に指定されるのならば、別に堀を切って水を通し、拝島領の堰の故障にならないようにしてほしい、と歎願した。
 これに対して翌二年四月四日、評定所から「武州多摩郡拝島領九ケ村与同郡日野領七ケ村用水堰論裁許」(前掲)が下された。その裁決の要点は、
 (一) 拝島村前の堰場は、二六年前の芝崎・築地・宮沢三ケ村の水論絵図に堰形があるので古堰であることは明白である。熊川村前が堰場であるという証拠はいっさいない。
 (二) 日野領側が、高月村内を流れるのが古来の秋川が川筋で、現在の流れは新しい川筋であると先年の武蔵野秣場論絵図をもとに主張するが、寛永年中(一六二四~四三年)の高月・留所両村境論絵図にも現在の川筋は載っている。一〇年前に秋川の洪水で高月村の田地が損亡に及び、同村が本来の流れを築留める普請を行なったとき、日野領から一言の苦情もなかったのに今になって、そこが古川筋であるという申分は筋が通らない。
 (三) したがって、拝島領の堰場は従来通り拝島村前で普請をし、一方日野領は秋川から用水を受けていたというが、多摩川を用水としていたことは紛れのないことなので、前々のように平村下の二ケ所を用水堰とするべきである。
という三点であった。日野領側の言い分を認めた検使役人の裁定がくつがえされて、評定所においては拝島領側の訴えが全面的に採用されたのである。この用水堰論の裁許状には、当時の三奉行ら一一人が連署しているが、そのうちの一人坪内能登守定鑑は、元祿一〇(一六九七)年七月二六日の地方直しで、中神村一四〇石を新たに知行することになったその人であった。その意味で、この用水堰論の裁許には興味深々たるものが感じられる。
 多摩川に築かれた拝島領九ケ村と日野領七ケ村の用水堰の位置は第4図のとおりである。

第4図
多摩川の用水堰(石川善太郎家文書)

 農民にとって番水は死活の問題であった。用水は当然、下流の村になるほど確保が困難となる。すべての水田に用水がゆきわたらないからである。九カ村用水組合でもこの問題は深刻だった。
 ここではまず、秋川から用水を堰き入れる問題をめぐって起きた、宝暦一〇(一七六〇)年の拝島村と下流八カ村との争論を紹介しよう。
 同年五月、八カ村惣代柴崎村平九郎・与兵衛、中神村清兵衛、福島村長兵衛らが代官伊奈半左衛門へ差し出した「乍恐以書付奉申上候」(『立川市史資料集』第五集)という史料によると、問題の発端はこうである。
  一多摩郡柴崎村郷地福島築地中神宮沢大神田中右八ケ村之者奉申上候、当年之義打続旱魃ニ而用水一向無御座田場仕付相成不申候ニ付、右八ケ村并拝島村都合九ケ村用水玉川秋川両川引入用水ニ仕候処、玉川水一切無御座、依之此度秋川用水ニ引入申度段九ケ村一同先達而奉願上候ニ付、御見分被仰付則御役人様御出被遊御見分先ニ而拙者共申上候者、去ル辰年渇水ニ御座候而秋川用水ニ堀入田場養育致候間、右堀筋此度堀入申度旨申上候処、拝島村より申上候者、右堀敷之義者御新田ニ御検地奉請候由申上之、用水堀入候義者難儀之旨ニ而相成不申由申之、是迄之用水堀江者逆水致シ水乗不申候場所ヲ堀入候様申候得者、村々大勢人足相掛候而も水乗不申候上ハ難義之上之困窮ニ罷成迷惑至極ニ奉存候、依之先年之古堀敷堀入候ニ者差障も有之間舗奉存候得共、彼是六ケ敷申ニ付、急難之義故無是非地代金成共御年貢償成共、右堀筋少々之場所ニ御座候間熟談致、多分之田場用水仕付為致呉候様再応対談仕候得共、一円得心不仕難義至極仕候、且亦秋川堀入之義者、先年拝島領九ケ村日野領与及出人候節、於 御評定所ニ御裁許被為仰付絵図面ニ御裏書被下置、拝島村前より秋川用水ニ引入可申旨被為仰付、則御裏書頂戴仕罷在候処、拙者共八ケ村ヘ無沙汰ニ右堀敷相潰シ御検地受候与申上候段難心得様ニ奉存候、前書申上候通拝島村前より用水引入候節堀敷相定御座候上者、拝島村江も右用水相用候得者可差障謂無御座候所、彼是差障リ用水相乗不申候場を新規ニ堀入候様申之、八ケ村之難儀を茂不顧手前勝手斗申熟談相調不申、田場仕付候義不罷成村々惣百姓難義至極ニ奉存候、御慈悲を以先年之通古堀敷入田場仕付候様被為仰付被下置候ハゝ、村々百姓共相助難有仕合ニ奉存候、己上
 今年は前年からの打続いた旱魃で用水がまったく不足し田植えができない状態であった。各村の渇水の程度をみると、五月一日の雨で多摩川の水かさが四寸(約一三センチ)ほど増したときで、植付け可能な場所は宮沢村は三分通(三〇%)、中神・築地・福島・郷地四カ村は二分通(二〇%)可能であるが、柴崎村は一〇%と見込まれていた。そして、残りの水田は「うないおこし」もできないし、また一両日も天気が続けばもとのとおり渇水になるという状態だった(同前)。多少の誇張はあるにしろ、このように確実に、下流になるほど用水は田にゆきわたらなかった。
 さて訴訟の趣きはこうである。九カ村用水は、多摩川・秋川を堰き入れて用水にしているが、多摩川の水が枯渇したので今度、秋川から用水を引き入れたい旨を九カ村一同で願い出た。役人が検分に出張してきたので、惣代が、去る辰年(寛延元年)が渇水で「秋川用水ニ堀入田場養育致」したのでその堀筋に今度も用水を通したい旨を申し上げたところ、拝島村が、そのときの堀敷はいま、新田検地を願い出ているので、用水を通すことには同意できないと反対した。そして、拝島村はこれまで用水堀え逆水をし水通りの悪い場所に堀をほるように主張するが、村々から大勢の人足を動員して堀をほってもうまく水が通らなくては「難義之上之困窮」になるので、拝島村の仕打ちを迷惑に思っている。先年の古堀敷を堀入れるのになんの支障もあるまいと思うが、拝島村があれこれ難しいことをいうので、急難のことでもありしかたなく、地代金の支払いでも年貢の肩替りでもするから、わずかの堀を通すことで多くの水田に用水を通し田植えをさせてくれるように、再三相談したけれどぜんぜん納得してくれず困っている。正徳二(一七一二)年拝島領九ケ村と日野領七カ村の用水堰論の評定所の裁許状には、拝島村前より秋川を堰き入れるようにとあるのに、八ケ村には無断で堀敷を潰して新田検地を請うというのは承服しがたいことである。拝島村にも役立つ用水であるのにあれこれ支障をのべ、あまつさえ水通りの悪い場所を新規に堀入れよとは八カ村の難儀をも顧みない手前勝手である。相談もなりたたず、田植えもできず村々惣百姓が難義しているので、先年のとおり古堀敷に用水を通し、田植えができるように取り計ってほしい。というのであった。
 なおこの用水普請は、同日付で差し出されたもう一通の願書(同前)によると、「秋川堀入之儀願之通被 仰付被下置候ハゝ当時仮水門仕立左右江少々宛之蛇籠ニ而堤囲九カ村自普請ニ仕立御入用御願申上置候」と、九ケ村の「自普請」で行ない、領主には負担をかけない、と断っている。自普請とは村が自前で行なった普請のことである。幕藩制社会では幕藩領主が水の支配権を握っており、本来普請の費用は領主から支給されたのである。しかし領主財政が悪化するにつれ、領主は負担を村方へ転嫁し、いわゆる自普請がさかんになる。
 さてこの訴願の結着であるが、宝暦一一年九月奉行所へ差し出した七ケ村惣代柴崎村名主治郎兵衛・平九郎、拝島村名主平四郎・庄右衛門・伝七・伝左衛門らの連印請書(史料編四六)によると、七ケ村惣代柴崎村に対する沙汰事項は、
 (一) 現在の山根圦(水門)二間三尺を二カ所に分割し、二間の圦はそのまま山根に今度作り、従来どおり多摩川の水を堰き入れる。また三尺の圦は七カ村の望む場所に今かあるいはのちになって作る。その場合、いずれも費用は七カ村が負担すること。
 (二) 堤外の秋川の水を引く堀の川除を丈夫にし、欠所、破損の場所が生じたら普請をし、堤内の新田堀敷・土手敷・土置場等の潰地については、七ケ村より地代金を支払うこと。またこれらの潰地にかかる年貢・諸役は勿論、村入用などは、以後毎年、拝島村並みのとおりをもって七カ村より差し出すこと。
 (三) 字大神水門を三尺拡幅し、水の流入をよくすること。その費用は七カ村の百姓役とする。作替ならびに川除、欠所・破損所の普請は永久に七カ村の百姓役とする。
 また拝島村に対するそれは、
 (一) 七ケ村惣代柴崎村への沙汰事項の反復であるが、堤内の新田堀敷・土手敷・土置場などの潰地については七カ村より地代金をとり、また同地にかかる年貢・諸役、その外村入用は、毎年拝島村並みの基準でもって今後七カ村より請取ること。
 (二) 大神水門の前後の堀幅の狭い所は早速切り広げること。
 と、以上のとおりであった。七ケ村は具体的に記してないが、水末の村から柴崎・郷地・福島・築地・中神・宮沢・大神であったと思われる。要するに、この用水普請は七カ村から労働力を出し、さらに普請にともなう潰地についても地代金の支払いと年貢・諸役・村入用などの負担をおうことになった。そして、それらの諸負担は村落内においては個別の農民に持高に応じて転嫁されたのである。
 なお「九ケ村用水」の番水は、第5図のような規定であった。用水の末の柴崎村からはじまって拝島村まで一週間で一巡し、それをもう一度くり返す方法がとられていた。

第5図 9ヶ村組合番水
数字は配水の延時間
時刻は現代風に改めた
「九ヶ村組合番水覚」(中村保夫家文書)