近世後期の経世思想家であり、農学者でもあった佐藤信淵は、彼の代表的な農書の一つである『農政本論』のなかで、農業技術論の観点よりつぎのように述べている。いわく、「耕作に精細を尽し、諸作物を十分に豊熟せしめんことを求るには……五ケの要法有り」と。この五箇の要法とは、地図・気候・土性・水利・耕種のことである。信淵の主張を要約すれば、各種の自然条件を周到に吟味して、そこに適した作物を栽培せよ、というのである。信淵はつづけて述べている。
先づ天象の度分と、地上の行程と能(よく)合躰したる地図を作り、次に諸地気候の寒暖強弱の番数を審(つまびらか)にし、次に諸処土性肥瘠・厚薄等を弁じ、且又洪水の難と、旱損の禍とを除くの備を厳密にし、然して後に草木を作るに、必ず先其需(い)る所の部を定て、此に応合する土性を撰び、能(よく)此を耕耙(は)し、而(しか)して其種植に従事すべし、然(しか)るに其需る所の部分を成長肥大にすべき法を講明せずして妾(みだり)に農事に従ふときは、損多くして益少きこと必せり、
信淵の農学の特徴は、合理主義を基盤においた、当時の最高水準における農業技術論を展開したところにあった。信淵は、その技術論を前述した「五箇の要法」の相互関連性のもとに体系化したのであった。この農業技術論の体系化は、信淵によって創出されたものではなく、それ以前の農学者や現実に農業生産に従事していた農民たちの英知が基底にあった。農民たちの農業技術に対する関心・知識は、信淵のように体系化されることはなかったが経験を基礎として、相当な水準に達していたと思われる。なぜならば、農業技術を無視した農業経営は、たちまちに経営の崩壊を招いたからである。
畑作地に対する年貢賦課は、前節で述べたように「永」でなされた。農民はこの年貢金納のために、近世初頭から、自家生活必需分の生産とともに換金作物の栽培を行なってきた。換金を目的とした作物栽培の前提条件として、市場におけるその作物の売買の成立が必要である。畑作地帯の農民は、自己の所持する畑地の気候・土性・水利などの自然条件に合い、しかも市場で一定程度以上の価格で売却できる作物を見つけなければならなかった。もし、作物の作柄が悪いか、市場価格が低ければ、たちまちに年貢不納に陥ってしまう。それは田畑を手放すことにつながり、経営の没落を招くのであった。耕地面積のうち畑が圧倒的比率を占める畑方農村には、稲作地帯の農民経営とは異質の苦労が存在したのである。近世初期の幕藩領主による農民観の一つであった「年貢さへすまし候得ハ百姓程心易(やす)きものは無レ之」(慶安の御触書)は、畑方農民の実態とはほど遠いものであった。
この地域の村々は、享保期の武蔵野の新田開発により、畑方農村の様相をさらに濃くしていった。また金肥使用量の増加は、農民経営における貨幣取得の必要性をいっそう強くさせていった。さらに社会全体の経済発展に基づく種々の需要の増大は、商品作物の需要を大きくした。このようにして近世後期に入ると、農業経営における商品作物栽培の占める割合が大きくなってきた。農民は自己の経営を安定させ、さらに富裕なものにしていくために、作付品目の選定・栽培に多大の英知・努力をそそいでゆかなければならなかった。
ところで、商品作物栽培は需要があるからといって、無条件に行ないえたわけではなかった。領主による作付品目の制限・統制が強かったうえに、近世の農業生産は自然条件に規定されることがなお大きかった。商品作物の品目のうち、需要が多く高価格なものの栽培に適した地域には、農民が富裕化していく道があったけれども、その種の品目の栽培には適さない地域もあった。さらに、同一地域内でも、個々の農民経営ごとに事情は異なっていた。富裕な経営は、商品作物栽培の展開とともに需要が増大して高価格になっていた金肥を十分に投入することができたであろうし、所持している畑地も肥沃であったであろう。零細な経営では、所持している畑地の地味は悪いうえに、金肥投入も不十分でしかなかったであろう。
本項では、右に述べてきたことを前提として、一八世紀後半における畑作農民のありさまをみていきたい。