まず、延享三(一七四六)年の場合をみていこう。この年の村明細帳(史料編二八)には、作付品目がかなり詳しく記されている。これを、第3表とした。畑方の作付品目について説明しておきたい。いずれも本田(畑)・新田(畑)で、主要に作付されたものである。このうち、大麦・小麦はいわゆる裏作である。大麦は農民の食糧にむけられ、小麦は在方の市(ここでは八王子)で換金して、六月に上納する「夏成御年貢」にあてられた。粟・稗・芋・菜・荏(え)・大根は、「秋作」つまり表作にあたるものであった。このうち粟は農民の食糧にされた。もちろん稗飯も食べた。そのほかの雑穀や芋・菜・荏・大根の蔬菜類は、換金を目的とした作物であり、九月に上納する「秋成御年貢」にあてられた。
第3表 延享3年上川原村の作付品目
水田の場合は、表作が稲作栽培となり、「秋成御年貢」として現物納もしくは金納されていった。
なお、時期は多少さかのぼるが、享保一九(一七三四)年の上川原村「野水湛腐り畑改帳」には、水損畑における作付品目が記されている。この史料により、上川原村本田における秋作の作付状況が管見できるので、第4表にかかげておいた。畑方等級と作付品目との関連性は、この表からは認められない。
第4表 上川原村水湛腐り畑一覧
つぎに、寛政一一(一七九九)年の場合をみていこう(指田十次家文書、「品々書上帳」。)。第5表は、この年の主要な作付品目を示したものである。これを延享三年の場合(第3表)と比較すると、粟がなくなって、蕎麦がでてきている。けれども粟の栽培が寛政一一年の段階でもおこなわれていたことは、「品々書上帳」の記載から明らかである。まして、粟は農民の主要な食糧であり、これがなくなることは考えられない。おそらく、「品々書上帳」の書式雛形にしたがって、記載されなかっただけであろう(註一)。蕎麦については、延享三年の村明細帳に何らかの理由で記載されなかっただけであり、享保五年の村明細帳ですでに作付られていたことが確認できる。
第5表 寛政11年上川原村主要作付品目
幕末の安政四(一八五七)の「村柄様子書上帳」(指田十次家文書)によると、この時期の主要作付品目は、第6表のとおりであった。ここで注目できることは、大豆・小豆があらわれたことである。ついで、明治五(一八七二)年の「壬申産物書上」(指田十次家文書)を第7表に示した。農作物として注目できるのは、菜種・藍葉・青茶である。
第6表 安政4年上川原村主要作付品目
第7表 明治5年上川原村「壬申産物書上」
以上、上川原村を例にとって、近世後半における作付品目の変遷を概観してきた。そこから、次のように結論づけることができる。
(一) ほぼ近世を通じての主要な生産物は、大麦・小麦・粟・稗の雑穀類であった。
(二) 近世中期には雑穀・蔬菜類生産が主要なものであったが、後期になるにしたがって蔬菜類の比率が下り、織物関係が大きくなっていった。
(三) 幕末期には雑穀類のうちで従来はみられなかった大豆・小豆の作付がみられるようになった。
(四) 繭・茶は、従来から生産されていたが、幕末期以降に急速な発展をみた。幕末の開港による経済変動の波及であった。