D 肥料

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 畑方農業が、これまでに述べてきたように、雑穀生産中心の経営から多様な商品作物栽培の傾向を示してくると、施肥の問題が重要になってくる。ことに、この地域の土性は概して悪かったので、作付品目の選定とともに肥料、とりわけ金肥の重要性が農民たちに認識されていったであろうことは、容易に想像できることである。
 本章第一節でみてきたように、享保期の新田開発により入会秣場は消滅した。この地域には、金肥はすでに享保期には導入されており、江戸舟肥や小糠(ぬか)が購入されて畑方へ投入されていた。江戸舟肥とは、江戸の武家方・町方の糞尿を農作物や貨幣で取得してくるものであった。もう一つの糠は、玄米精白のおりに果皮が粉になったもので、脂肪・炭水化物・蛋白質などを含み、良質の肥・飼料であった。糠は上方(かみがた)からの「下り糠」が多く、江戸の糠問屋を通して売りだされていた。
 近世中期以降、武蔵野の畑方ではとりわけ糠の需要が大きくなった。しかしながら、近世初頭以来の自給肥料もなお重要な位置を占めており、近世を通して次第に確保しにくくなった自給肥料をめぐる争論は、枚挙のいとまがないほどである。このために、自給肥料に関する諸規定も幕末まで繰り返し発令されている(本節第三項参照)。
 ここで、自給肥料の内容をみておこう。まず、近世中期の場合は「秣ヲ取り、馬屋こひ(肥)ニ仕」ったとある(史料編二八)。この時期には、各村々にいまだ相当数の馬が飼育されており、自給肥料のうちでも「馬屋こひ」が良質なものであった。ところが、近世中期以降になるにしたがって、農業の経営形態が変化して馬の飼育が減少傾向をたどると、肥料の製法も変っていった。近世後期では、「真草・木の葉等を腐らかし、下こやしニ仕」っていくのである(史料編三〇)。いわゆる、廃物を積み重ねて腐熟させた堆肥(たいひ)である。
 なお、金肥についても、村明細帳を管見する限りにおいて、後期には糠とともに灰が現われ、江戸舟肥は姿を消している。
 以上要約してみると、肥料についても中期から後期にかけて、
  馬屋肥      堆肥
         →
  江戸舟肥・糠   糠・灰
の変化が認められる。江戸舟肥が使用されなくなった一因としては、価格の高騰があげられよう。また灰の使用は、作付品目の変化によるものと考えられる。灰は、主として葛西・六郷などの江戸近郊の水田地帯でわらを焼いて生産されたものであろう。農民たちはそれを市(いち)で買い求めていた(註二)。
 糠の使用量は、寛政一一年段階で田中・上川原村の場合、「壱反ニ糠八斗入壱俵程相用ひ」たと記録されている(史料篇三〇)。当時の糠の江戸市中相場は、金一両に付き糠六~七石であった(註三)から、農民の経営にとって金肥購入費用は大きな負担であった。