『地方凡例録』巻之二下「土地善悪之事」には、土性と作付品目との適性を略述した箇所がある。まず、これを現代語にしてみよう。
おおむね黒土は麦に宜しい。赤土は大豆によろしい。黄白土は粟・黍(キビ)によろしい。細かくて柔らかな砂土は大根によろしい。水場が近く柔らかな土の日陰部分は芋によろしい。赤真土・砂土は麦・菜に宜しい。黒真土に細石(コマイシ)がよく交り合っているのは諸々の作物に適しているが、なかでも麻・木綿によろしい。湿気の洩れやすい南向きの赤土は楮(こうぞ)によろしい。土が強くて堅く粘っている小石交りの土は茶によろしい。強い真土は麦・菜・大根・芋などには宜しくはないが、木綿には適していて成長もよくワタの吹き具合は良好である。また湿気の強い畑は諸々の作物にはよくないが、芋にはきわめてよろしい。また野土は一体に悪い土性であるけれども、大根にはよろしい。
右の内容は、種々の土性に適した作物を列記したものである。ここで明らかになることは、良質の土性が必ずしもすべての作物にとって適地ではない、ということである。つまり、土性が悪ければ悪いなりに、その土性に適した作物を栽培すればよいのである。この観点から、上川原村に作付された、いくつかの作物の栽培法をみていこう。なお以下の記述における史料引用のうち、出典を明記してないものは、佐藤信淵『草木六部耕種法』の引用で、近世後期の技術水準を示している(註四)。
畑地風景(昭和32年頃の拝島町付近)
○大麦
大麦の耕種法は、
高田の湿気少き所に宜し、……畑にても田にても能く耙耕して其の土を精砕するを良とす、……肥養には、活物肉の腐汁、或は干鰯・油糟・人糞等、何にても必ず灰を和して蒔時の肌糞とすべし、古語にも灰の無ときは麦を蒔くこと勿れと云へり、……糞苴には、煤気のある者と塩気のある者を第一とし、其の他活物の肉汁、活物の糞尿、及び油粕・造醸糟・豆肥等に水を和し、時々根辺に澆べし、
とされていた。大麦は畑方の代表的な作物の一つであり、農民の主要食糧の一つであった。栽培には、肥土は必ずしも必要ではなく、肥料としては灰が不可欠であった。
○小麦
小麦の耕種法は、
小麦を作る地の調理は、大麦に全く同じ、……此の物は肥たる土地を好まざるを以て、勝れて肥たる田畑ならば、肌糞を始め培養を多く用ふること勿れ、且つ少しく湿気の気味を好み、軽く乾たる土地を嫌ふ、
とある。小麦は、大麦とともに裏作として広く栽培されていた。小麦の栽培法は大麦と全く同じであったが、肥地をきらい、また軽く乾いた土地を嫌った。この小麦は、自家消費分を除いて市へだされて売却されたが、その用途は「粉となし、麪及び諸の蒸〓(むしがし)・饅頭(まんじゅう)等を製すべく、麹となして醤及び諸の〓(みそ)を醸るべし、必用の嘉穀なる哉」と、多方面で当時人々の食生活に貢献するものであった。昭島でも製粉用の水車がまわっていた。
○粟
粟の耕種法は、
何れの土地にても、新開の山畑なりとも、深く軟膨て蒔き付けるときは、意外に多く実を得る者なり、……灰糞を用ふれば殊に宜し、……土地に潤の少しあるを良とす、
というものであった。栽培はいかなる土性の土地、たとえ新開の山畑でも可能であった。肥料としては灰糞を使用すれば殊によく、また土地に湿気が少しある方が良かった。この粟は、大麦とともに、農民の主食であった。だいたい粟三・大麦七の割合であった。
○稗
稗の耕種法は、
水稗・旱稗の二種あり、……飢饉の備と牛馬の飼ひ料に此れを作るのみ、水稗は沢田の水寒て稲を作るべからざる所、或は潮田等に植べく、旱稗は山谷間の嶮して他物を作り難き悪地に植るときは利益を得べく、焼畑等にも宜し、……糞肥を用ふること無く、耘ること無しと雖も、此れを種殖するときは自然に豊熟す、
とされた。稗は他物を作りがたい悪地に植えられ、しかも肥料は不必要で耕すこともいらなかった。信淵は、飢饉の備えと牛馬の飼料としてのみ、稗の用途を認めていた。しかしながら、武蔵野の人々は稗飯も食べた。第三章第一節で述べる天明飢饉ののち、幕府は寛政改革の一環として、村々に対して備荒貯蓄を命じて郷蔵を建て籾を囲わしめたが、寛政一一年段階で上川原村では、御加籾二斗八升四合四勺、稗二五石三升八合を貯えていた(「品々書上帳」)。まさに「飢饉の備」として稗が貯えられていたのであった。なおこの貯穀に関する記載は、旗本領である田中村の「品々書上帳」(史料編三〇)にはみられない。
○蕎麦
蕎麦の耕種法は、
植地は必ずしも肥良を好ず、牛馬の糞、其の他厩肥・灰糞等を錯て能く軟膨、或は山野を刈焼て新墾したる地にても二三遍耕蒔して、晴天の日中に蒔べし、……蕎麦の肥養は、灰及び牛馬の糞、其の他活物の肉汁・干鰯・油糟・豆 汁等皆な宜し、此の物は塩気を好む者なるを以て、海藻の類、塩竈崩たる焼土・塩焼灰等を培養ときは、裕別に実の多き者なり、
というものであった。栽培には肥土は必ずしも必要ではなく、肥料も自給肥料・金肥の別を問わなかった。蕎麦は不安定な作物であったが、本市域でも幕末期には相当に作付されており、おもに粉にしてそばがきにして食べた。
ここまででみてきた、大麦・小麦・粟・稗・蕎麦のいわゆる雑穀類は、上川原村における近世を通しての主要生産物であった。第8表は、寛延二(一七四九)年におけるこれらの雑穀類の反当り収穫量を示したものである。
第8表 寛延2年上川原村雑穀反当り収穫量
つぎに、近世中期から後期にかけて、栽培の消長のあった作物をいくつかとりあげてみよう。まず、中期における蔬菜類の代表として、大根をみておきたい。
○大根
大根の耕種法は、
黄埴か或は黎埴・黒埴等の如く、其性重く力の強き土性の場所を撰び、……諸の埴土は其性粘甚しく極て硬〓(かたまる)ことの強き土なり、……能く耕し、活物肉汁を澆て能く調ふく置き、……蒔べし、藁灰を活物の肉汁に湿し、此れに和て蒔たるは殊に宜き者なり、……既に芽を出したらば活物肉汁を灌ぎ、……時々能く草を除き、根辺を踏堅て、……毎年同処に作りて上品を生ずる者なり、
とされていた。つまり、雑穀類よりも土性・耕作技術・肥料などの何れの点についても厄介なものであった。しかるに、大根が栽培されたのは、
蔬菜の中に於て世上の有用最も多く、五穀に劣ざる必要の物たり、故に此の物饒多なるときは、他の諸菜は無しと雖ども事足り、此の不足なるときは、五穀の凶荒と異なること無く、頗る人世の禍害なり、
という理由によるものであった。蔬菜の首位を占める有用の品で、五穀に匹敵する必需品とみなされていたためであった。
つぎに、近世中期にはすでに栽培されており、後期から幕末期にかけて急激に作付量をふやした桑と茶にうつる。いずれも中期には「売不レ申」品、すなわち自家消費分であったが、幕末から明治初年にかけて、相当の販売量をもつにいたったものである。
○桑
桑の耕種法は、
植地は、砂錯の地を第一とす、然れども桑は培養をさへ懇到にすれば、何なる土地にも繁栄す、故に山中或は野原・荒畠の廃地ある処は、桑を作りて蚕を養みの業を興すべし、……畠に桑ばかり作るには荒畠を良とす、野原を畭(ひらき)たるも亦宜し桑は甚だ成長し易き者なる
というものであった。近世中期までは主として自給用の養蚕のために「畑之内ニ少々植置」いた程度にすぎなかったが(史料編二八)、一八世紀後半以降の江戸の需要増大によるこの地域の絹織物生産の発展と密接に関連して、上川原村においても養蚕が活発となり、桑の栽培が増加したのである。この場合、桑は土性の善悪を問わず栽培しやすかったことが、養蚕盛行の一因として考えられる。
○茶
茶の耕種法は、
茶園を立べき土地は、……唯能く北風の吹徹して爽(はれやか)なるを好み、湿気の溜滞る湫隘たるを悪む、故に山の北面片下りなる土地を最良とす、然れども山野は論ずるにも及ばず、培養を懇到にするときは、畑にも田にも植ゆべき者なるを以て、茶園を取り立る場処を撰ぶことは、気候よりも土性よりも、培養するに便宜を専要とすべし。……茶を植ゆるには赤土・黒土に抱はらず、砂利・小石の錯たるをも嫌はず、能く堅実たるは殊に宜しく、唯其虚鬆たるに宜しからざるのみ。先づ山畠ならば、高方より卑方に縦に深さ二尺、幅二尺六七寸に溝を掘り、底に瓦を敷き、其の土に性の実たる肥土二十〓と、胡麻の油糟の粉八斗、干鰯の粉八斗、米糠八斗づゝの割合にして細に能く揉み合せ、右瓦を敷たる上に厚さ一尺余り盛り置き、其の調合土の中に芽を出したる茶種子を……蒔き並べ、……茶園を立て茶木を早く繁栄せしむるには、第一に他草を能く芸り、根傍を深耕し、厩肥の蒸腐りて細かになりたるを多く培ひ、枯葉又た蜘蛛巣等を攘ひ除き、干鰯と油糟を肥養に用ふべし、人糞・馬糞も亦宜し、
とされていた。近世中期には「畑之風除ヶニ少々植置」たものにすぎなかった(史料編二八)が、幕末の開港以後の時期に、急速に発展したものと思われる。茶の栽培は、桑と同様に、土性や気候が決定的要素ではなく、肥料の投入と農民の勤勉な労働の仕方いかんにかかっていた。このため、製品(もしくは原料)の需要と金肥の確保とが作付規模を決定していった。
つぎに、近世中期以前には栽培されておらず、中期以降新たに栽培されるようになった作物として、藍・大豆・小豆をみることにしよう。
○藍
藍の耕種法は、
此の物の性は極めて河水の滓垢を好む故に、藍は大雨打継くときは河水溢れ満て、年々沈〓に遇ふ土地に作らざれば繁茂すること無し、藍の極上品を出して大利を興さんことを欲せば、必ず河畔沮洳の地を撰て作るべし、……根の辺に糞肥を入れて其の土を耙培ひ、草を除き虫を殺し、時々怠り無く薬汁を灑て此を育てるときは、茎葉大に繁衍す、……藍を作るも、烟草と同じく虫を殺すこと甚だ労煩なる者なり、……藍葉を繁茂する薬肥の法とは、干鰯八斗、草木の灰二石、右の二品細末調合し、濃糞五荷を以て煉りたる者なり、凡そ藍を作るには此れを第一の肥とす、
とされたものであった。藍はその葉から染料をとるものであり、この地域における織物生産の展開と関連して、栽培が始まったと考えられる。作付けの場所は河畔の地であり、多摩川の河岸が充てられた(第三章第一節参照)。この藍栽培は、煙草と同じく、技術的にも手間も煩多なものではあったが、利益は大きかった。
○大豆
大豆の耕種法は、
植地は、格加に肥地の深き土は、茎葉のみ繁栄して実の少き者なり、且つ此れを耕耙も、精細なるは却て宜しからず、……糞養を用ふるには灰養を専一とす、
とされていた。大豆もやはり肥土は不必要で、灰肥をもっぱら用いた。上川原村では近世中期には「大豆之義者野土御座候ニ一切作り不レ申候」(寛延二年「上河原村差出シ帳」)と、全く栽培されなかったが、幕末期には栽培されるようになった。
○小豆
小豆の耕種法は、
大抵大豆を植る法にて宜し、……磽地は灰糞を少しく用ひて甚だ宜し
とされていた。おそらく、大豆の栽培とともに栽培されるようになったのであろう。
以上、上川原村における諸作物の栽培法を、土性と肥料とを中心にみてきた。この村の近世中期から幕末期における作物の変遷をまとめれば、次のことが明らかになる。
(一) この村の諸作物は、いずれも瘠地に栽培可能なものであった。
(二) 近世を通しての主要な農作物は、大麦・小麦・粟・稗・蕎麦の雑穀類であった。
(三) 雑穀類のほか、中期には大根などの蔬菜類が多く栽培されたが、後期には織物生産の原料が蔬菜類に代って多く栽培されるようになった。また、幕末期には茶の栽培が急速に増えていった。
(四) (三)の諸作物はいずれも換金性の高いものであった。蔬菜類→織物原材料の変化は、近世中期以降におけるこの地域の一般的な状況であった。その理由はつぎのとおりである。畑方の村々は本来的に換金作物栽培の必要性が大きかったが、中期以前では市場・肥料の面から蔬菜に限定されざるをえなかった。中期以降、この地域に織物の生産が活発化するにつれて、その原材料の需要が大きくなった。それとともに金肥の供給が活発化して、両者相まって織物ことに絹織物の原材料の栽培が、蔬菜類の生産に代ったのであった。
このように、近世昭島の農業は、土性・気候・水利などの自然条件に大きくに規定されつつ、市場の需要・金肥の供給との関連で、その方向性が決定されたのであった。農民たちは、与えられた種々の条件のもとで、経営の安定化・富裕化のための努力を、たえずはらっていた。それが、近世中期以降における農村への商品経済の浸透のなかで、それぞれの地域に適合的な商品作物栽培の展開となってあらわれたのである。ことに、中期以降に新たに栽培されていった諸作物をみると、肥料と栽培技術とに大きな比重がかけられるようになったことがわかるであろう。