これは農民が耕作の合間に行なう賃稼ぎの労働のことであり、農間渡世ともいった。その種類は、薪取り・炭焼き・駄賃稼ぎ・各種小売り・機織りなど、多種多様であった。この農間稼は近世初頭から存在したが、中期以降の貨幣経済の浸透・年貢金納化傾向のなかで、漸増の方向をたどっていった。農民の側からみれば、農業経営のみでは生計が成り立たず、経営維持のためには稼ぎをしなければならなかったのであろう。
農間稼は、本来は農閑期におこなわれる余業であるだけに、その村のおかれていた環境に規定されることが多かった。たとえば、拝島村のような町場であれば、各種小売商・諸職人などが多くみられ、川沿いの村では漁猟に従事した者も少くなかったのである。
幕府は農間稼に対して相当に神経をつかっていた。それは、稼が盛んになるにつれて、農民の本業である年貢納入のための田畑耕作がおろそかになることを憂えたためであった。さらに、奢侈の風潮を助長させ、華美な生活になじむことをも恐れていた。これが、文政一〇(一八二七)年の農間余業調査となっていくのである(第三章第二節参照)。
さて、昭島市域の場合をみていこう。拝島村は宿駅でもあり、近世の早い時期から商人・職人がいたと考えられるが、史料が現存せず実態は不明である。管見する範囲で、農間稼の実態を示しているもっとも古い史料は、享保五(一七二〇)年の上川原村明細帳(史料編二七)である。これには、
当村百姓耕作之間ニハ、山方へ罷出申候而炭・槇木買出申候而江戸へ附送り、駄賃少々宛ニ取候而渡世送り申候
と記されている。つまり、耕作の合間に山方(延享三年の村明細帳には、具体的な地名として「五日市」が記されている)へ行き、炭や薪を買って江戸へ運搬し、駄賃稼をしていたのであった。また、この明細帳によれば、商売人・鍛治・紺屋・大工は「無二御座一候」とされている。なお上川原村明細帳では、この時期以降幕末にいたるまで、男子の農間稼は、「縄ない」・「薪取・秣刈」・「駄賃稼」のみが一貫して記されており、特筆すべき変化は認められない。
一八世紀半ばに入ると、農間稼は新しい側面をみせはじめる。まず延享三(一七四六)年の村明細帳(史料編二八)をみていこう。「農業之間……女も手稼ニ木綿・紬少々ツゝおり申候」と、女子の織物稼の記載がふえはじめる。この表現は、以後一九世紀初頭まで一貫して同じである。この延享三年の明細帳では、織物に関連のある事項として、桑を少々植え付け蚕を少々飼っているが、木綿(きわた)は作っていないことが記されている。したがって、紬の材料は自家製であったとしても、木綿織物の材料は他所から移入されたものを使ったのであろう。さらに注目すべきことは、「源兵衛与申百姓、耕作之間ニ江戸江参り絹商買(ママ)仕候」(本章第一節参照)と、農間稼として江戸で絹商をする農民があらわれていた。いまだ八王子織物市場の集荷体制が確立する以前の一形態として理解されよう。そのほか、この村には大工が一人いたと記されている。
寛延二(一七四九)年の村明細帳では、右の大工のほか、木挽一人が記されている。
一八世紀末の寛政一一(一七九九)年の場合をみておこう。女子は蚕を飼い、青梅縞を織りだしていると記されている(史料編三〇の田中村の場合と同文)。青梅縞は、絹と綿とを交ぜて織ったもので、一八世紀初頭頃から青梅地方の特産品となったものである。これ以降一九世紀にかけて、昭島地域にも青梅縞の生産が展開して、明治初年には上川原村で年間五〇〇反にのぼったのである。すでに寛政一一年には、「農業之間稼ニ仕」ったものとして、
一大工 百姓宗吉
一酒菓子商 百姓吉右衛門
一青物せり売 百姓藤八
一青物せり売 百姓重右衛門
一青梅縞商 百姓宇兵衛
が記されており、青梅縞を扱った者もいた。また、同年田中村のばあいも、
一大工 百姓次左衛門
一酒菓子之類せり売百姓武助
とあるように、この時期にはどこの村でも、農間稼の商・職人がいたのである(史料編三〇)。
一九世紀半ば以降幕末にかけて、この地域の村々では青梅縞・黒八丈(黒一色の太糸による絹織物)の織物生産が、女子の農間稼として行なわれた。第三章第三節で明らかにする中神村中野家はこのような背景のもとに、おそくとも明和年間(一七六四~七三)には、八王子織物市場に出入りする在方縞仲買として活躍していくのである。
昭島市域の村々における農間稼は、男子は近世をとおして駄賃稼・薪取りなどであった。ことにこの市域の村々は、山方の村々と江戸との交通路に位置していたことにより、駄賃稼ぎを比較的容易に行ないえたのである。女子の農間稼は、中期以降の織物生産に特質づけられる。この織物生産は発展の一途をたどり、青梅縞生産地帯の一部分を形成するにいたった。幕末期にはたんなる農間稼の域をこえて、農民経営の重要な部分を占めるようになったと推定されるのである。