多摩川は昭島市域南端を東流している大河川である。現在は、河岸にはさまざまな護岸工事が施され、また水量もかなり減っており、往時の景観とはかなり異っている。近世においては、「拝島・日野辺に至りては、急流なりといへとも、水勢をたやかにして、河原百間(約一八〇メートル…筆者註)、或は二百間余なり。水幅廿間或は三十間許」(『新編武蔵風土記稿』)という、堂々とした大河川の威容をほこっていた。この多摩川は、第三章第一節で述べるように、しばしば市域村々に甚大な水損をもたらし、人々は堤堰の普請に苦労させられ続けた(第二章第二節参照)という厄介なものであった。
けれども人々は、この多摩川で漁撈を営むことにより、生計の補助とすることができたのであった。多摩川の漁業では鮎漁がもっとも有名であり、当時鮎は「多摩川の名産なり」(同右)といわれていた。この『新編武蔵風土記稿』によれば、昭島市域の村々のうち、次の四ケ村に、漁撈の記述がある。
拝島村…村民耕作の余業には……鮎猟の業をなし、江戸へ出てひさげり、
作目村…村民耕作の暇漁猟をなして生産の資とす、
宮沢村…耕作の外多磨川に出て漁猟をなして生業とす、
築地村…耕作の外多磨川に出て漁猟をなして生業の資とす、
また、近代に入るが、拝島村では明治一三(一八八〇)年段階で総戸数二二七戸のうち三〇戸が、兼業として漁業を営んでいたという。このように、昭島の人々は農業の合間に多摩川へ出て、漁撈に従事するものがいたのであった。もちろん、右にあげた拝島・作目(田中)・宮沢・築地の各村以外の農民たちのうちにも、漁に出た者はいたことであろう。
多摩川の鮎漁は、『立川市史』に詳しく述べられている。そこで同書により、概観をみておこう。
(一) 多摩川の本流・支流(秋川、浅川)は、天然鮎の遡上が豊富であった。
(二) 多摩川の鮎は、将軍家の御用鮎として上納され、その課役が沿岸諸村に賦課された。御用鮎制度は一八世紀初頭までに確立しており、幕末でも年間一〇万尾を上納していた。
(三) 鮎は、春の上り鮎・秋の下り鮎とともに漁獲された。漁獲法は、網漁を主として、他に簗・鵜飼いも行なわれた。御用鮎は網漁であった。
(四) 鮎漁は、上流は小丹波村を限りとし、下漁は布田宿付近を限りとして行なわれていた。秋川では、中山滝から牛沼村までの間であった。
多摩川の鮎漁は、右に述べたようなものであった。将軍家へ献納する御用鮎猟を中心として、盛んにおこなわれていたといえよう。
昭島市域の鮎猟に関する史料は断片的なものにすぎず、全体像を把えることはできない。村々のあいだで、多摩川の鮎猟場の区域割けがなされていたこと(史料編六四)、秋の彼岸頃より簗(やな)猟がおこなわれたこと(史料編六五)などが、わずかに知れるのである。