宿駅は、地子(じし)(屋敷地に賦課される年貢)免除などの特権が与えられた代りに、伝馬を維持する義務を課せられていた。幕藩領主の交通運輸を支障なく確保するためである。宿駅の人馬継立は、(一)無賃による伝馬、(二)御定賃銭(一般の人馬賃銭に比べて低価)による賃伝馬、(三)相対(あいたい)賃銭(時価)による駄賃馬の三種類があった。
その宿に課せられた人馬継立は、その宿の常備人馬で継送するのが原則であったが、一時に多量の人馬を必要とする場合もあり、常備人馬のみでは対処できないこともあった。このような人馬不足に対してとられた措置が、助郷制である。助郷制とは、右のような人馬不足の場合に、周辺の村々に補助的に人馬補充を賦課する制度である。
元禄七(一六九四)年、幕府は助郷村の再編成を実施した。各宿近辺の村々を支配領主の異同をとわず附属助郷に指定して、村高一〇〇石につき二匹二人を割りあてることを基準としたものであった。助郷役は村の助郷勤高に応じて、村の責任で提供する義務をもつ強制的な夫役になった。もっとも一方的な労力提供ではなく、一定の賃銭が支給されはしたが、実情は時価と比べてきわめて低い賃銭であった。助郷役の課せられる範囲はしだいに拡大され、その結果として宿駅から遠距離の村は事実上出役不可能になって、次第に金銭をもって代納するところもでてきた(註五)。
このようにして、近世中期には助郷役負担は、農民にとって重い負担となってきた。明和元(一七六四)年末から翌年正月にかけて、上州から武州にかけて展開した大一揆は、助郷役重課反対を目的としたものであった(第三章第一節参照)。
さて昭島市域の場合をみていこう。拝島村は「日光街道」の宿駅であった。日光街道とは、八王子千人同心が日光山の防火役、いわゆる「日光火之番」・「日光勤番」として在番するための、八王子から日光への往還路のことである(註六)。
千人同心は近世を通じて交代で日光へ在番したが、その回数は一、〇三〇回を越えたという。この道中は、拝島・扇町屋・松山・佐野を経由し、佐野~日光間は「例幣使道」を通り、全行程約四〇里(約一五七キロメートル)で、三泊四日かかるものであった。道中には伝馬の御朱印・御証文を賜わり、承応元(一六五二)年以後は千人頭二人に伝馬四匹、同心一〇〇人に馬四匹の規定であったが、寛政三年(一七九一)年六月以降は伝馬二匹、同心五〇人に馬七匹であった(註七)。
拝島村はこの日光往還道の宿駅として、「人馬の継立をなす、八王子へ一里二十八町、箱根ヶ崎へは二里の馬次なり」(『新編武蔵風土記稿』)と、伝馬役を負担していた。この伝馬役は、拝島村のみでは負担しきれず、近在の村々に「助人馬」を出させていた。その人足・馬の員数は、寛政一一年(一七九九)年の田中村の場合、一年間で人足四〇人余・馬六匹余(史料編三〇)であった。
交通運輸に関する人々の負担は、右にあげた助郷のみではなかった。たとえば「廻状」とよばれた、領主から村々への用件を通達するための書簡を、村継ぎに送らなければならなかった。廻状には、年貢取立・夫役・助郷人足など、具体的な用件の指示が記されていた。ふつう十数ケ村が一単位となっており、最初の村より順を追って回し、最後の村より再び領主のもとへ戻す仕組であった。この廻状は農民の手で、各村の名主へ継ぎ送るのが常であった。
また第三章第二節で述べるが、文政改革によって組合村が設定されると、罪人などの護送も組合村農民の負担となった。この時期以降、ことに幕末期には、大規模な輸送のために賦課される人足・馬の員数は莫大なものになり、助郷負担は急激に増大していった。ときには遠方の宿駅からの助郷役賦課も加った。この事情は、第五章第二節で明らかにしていこう。
第9表 文化四年(1807)駄賃表