D 貸借関係

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 本章第一節でみてきたように、農民の所持高・反別は頻繁に変化していた。これは、農民間で田畑の活発な売買譲渡がおこなわれていたことを示している。
 近世では法制上、農民間の土地売買は認められなかったから、実際は、法的には田畑質入れ→年季切れ→田畑所持主の変更のかたちで、実質的な売買譲渡がおこなわれていた。また、所持田畑が小さく自己の所持地のみでは経営を維持できない農民は、所持田畑の大きな農民の田畑を小作することで、その経営を補っていた。第10表は、延享三(一七四六)年の上川原村における、年季質地・小作金の基準相場である。農民間における土地(所持田畑)を媒介とした貸借関係は、この相場に基づいておこなわれていたのである。この相場は寛延二(一七四九)年には、左のように記されている(「上河原村差出シ帳」指田十次家文書)。

第10表 延享3年上川原村貸借関係相場

  一畑方小作入上リ壱反ニ付、五六百文より八九百文迄御座候
  一年季質物之義、壱反ニ付金弐分三分程ニ御座候
 上川原村の場合、ほぼ一八世紀前半以前に限ってみれば、土地の売買譲渡は頻繁におこなわれながらも、全般的に農民の所持高は増加傾向をしめしていた。この村の農民は高の大小のちがいはあったが全員所持高をもっており、「高持(たかもち)百姓」、いわゆる本百姓であった。
 一八世紀半ば以降になると、村のなかにおける農民同士の関係が、以前とは違ったものになっていく。富裕な農民と貧窮した農民との格差が次第に大きくなって、両者の利害はしばしば相反するようになっていくのである。この農民間の階層分化が次第に明確になっていく理由はいくつか考えられる。まず指摘できることは、本節第一項で明らかにした農業経営の形態変化である。近世中期までの自給的な色彩の濃かった経営形態は、中期以降商品作物栽培・農間余業としての商品生産の高まりのなかで、質的な変化をとげていくことになった。農民のうちで、生産された商品を集荷する仲買となった者や、需要の増加した金肥を扱う商人を兼営した者などは、農業経営以外の収益をあげることが可能となった。一八世紀半ばすぎの昭島市域をみれば、中神村の中野家はすでに縞仲買商を始めており、拝島村には水車を築き脱穀・製粉を始めた者もいた(第三章第一節参照)。このような農民は、諸営業による収益を営業の拡大のみならず、農業経営の拡大にあてていくことも可能であった。
 右に述べたような富裕な農民がでてきた一方で、年貢が納められなかったり、金肥の代金を肥料商人に支払い不能となった農民が数多くあらわれてきた。さらに一八世紀後半は関東地方で天災が相ついで(第三章第一節参照)、経営の規模が小さく不安定な農民は多くの打撃を蒙った。貧窮した彼らは、自己の所持地を質入れして、窮状をしのいでいかなければならなかった。しかし質入れ地は年季が明けても多くの場合請け戻すことができず、貧窮農民の所持地は一部の富裕な農民のもとに集積されていくことになった。貧窮農民は所持地を質入れしたのちも、実際の耕作は小作人として行なうという、いわゆる質地小作をする者が多かった。このようにして、自己の所持地のすべてを手放してしまった農民を「無高(むたか)百姓」と呼んでいる。この無高百姓は、質取主とのあいだで質地地主-小作の関係をとるか、生来の居所を離れてしまうか、いずれにしろ没落の途をたどった。
 農民間の貸借関係は、同一村内に止まらなかった。たとえば上川原村では寛政九(一七九七)年の段階で、村高の三四%がこの村に北接する宮沢新田・殿ケ谷新田の農民の所持するところとなっていた(第三章第一節参照)。この状態は、上川原村のかなりの人々が宮沢・殿ケ谷両新田の農民から借金をして、その抵当に所持地を譲渡した結果であろう。
 この地域の村々は、農業経営がもともと成り立たないような農村ではなかった。ことに上川原村は享保期の新田開発により、農民たちは多少なりとも経営を補強していたはずであった。一八世紀後半に、村内には女子の織物稼ぎが導入されており、さらに新しい商品作物も栽培されつつあった。以前よりも、農民の経営が強化された面もあったはずである。にもかかわらず、一八世紀末には、村高の約三分の一が他村へ譲渡されていたのである。この原因は、凶作による被害ばかりではなかったであろう。むしろ、中下層農民の経営のあり方そのものに問題点があったのではなかろうか。農民の経営は、商品作物栽培の進展というこの地域全体の潮流のなかで、換金性の高い作物栽培を余儀なくさせられていた。この作物栽培のためには、本節の冒頭で明らかにしたように、十分な金肥を投入することが必須条件であった。ところが、肥料の高騰は中下層農民の経営維持にとって大きな障害となった。つまり、中下層農民は十分な施肥をおこなうことができず、その結果として彼らの田畑は予期した収穫をあげえなかったのである。それは、上層富裕農民との経営格差を決定的なものとしていった。
 ところで、先に述べた上層の富裕農民は、自らの農業経営の他に、在方商人・質屋・酒造などを営むものであった。彼らはその資力により、貧窮化した中下層農民を金融関係の支配下にまきこんでいったのである。貧窮農民は、富裕な農民から「高利(註八)」の借金をすることを余儀なくされて、田畑放出の速度を早めていくのである。