幕藩領主は、農業経営・農民生活全般を規制するために、多くの触書・廻状を村々に交付した。それらは村役人のもとで「御用留(ごようどめ)」として写し綴られて、かつて名主役などを勤められた人々の家に伝えられており、私たちが近世史をときあかすときに、多大の便宜をうけている。
農民の生活や経営を規制する規範は、右に述べた領主法令のみではなかった。この領主法令とともに、現実の農民生活における種々の規範は、村の慣行や村法に規定されていた。つまり、慣行や村法は農民が村落秩序を維持するために、すくなくとも形式的には自ら創り上げていった法であった。この農民自らの法のうち、不文法が慣行であり、成文法が村法であった。
ここで取りあげた村法(そんぽう)は、村極(むらぎめ)・村議定書(むらぎじょうしょ)などともよばれているものであり、その内容は時期・地域によって多岐にわたっている。名主選任の規定といった村政上のものから、租税の納入・入会・用水・農業秩序・倹約・道徳などの規定であるが、これらを包括した数十条におよぶものから、特定の事項に限定されたものまであった。村法の内容・形式は、領主法令の要約集成されたものである五人組帳前書と酷似しており、領主の村落支配に関する政策意図がほぼ貫かれたものであった。上杉允彦氏はこの点について、領主は領主法的村法を村内の実情に応じて徹底させ、村落秩序維持の手段としたためであった、と述べている。このような法的性格をもつ村法は、その成立事情からみて、農民の生活上の要求からでたものより、むしろ領主の編成に合せて成立したという側面がきわめて強かった。その機能は、村落の階層間秩序を固定させ、同時に生活の細部にまでわたって農民を統制するものであった(註九)。
村法は概括的にみれば、右のようなものであった。けれども、村法は農民生活の諸側面を現実に具体的に規定していた法でもあった。そこで、上杉氏も指摘しているように、村法のいかなる事項が農民の生活にどのような規定性をもつのであったのか、ということの追求をすることによって、農民生活のある部分が明らかになるであろう。つまり、村法はたんなる領主法の補完のみではなく、現実の農民生活の投影されたものでもあるという立場にたって、昭島市域村々の村法をみていくことにしよう。