幕末の安政四(一八五七)年三月、福島村の惣百姓七〇人は「村中法渡(ママ)議定連判帳」(史料編三五)の末尾に、それぞれ署名捺印して、村中法度の遵守を誓ったのである。まず、この村中法度の内容を一ヶ条ごとに列記してみよう。
(一) 公儀法度の遵守
(二) 御用人馬触の遵守
(三) 博奕・博奕宿の禁止
(四) 尾州鷹場役人への不法禁止
(五) 鷹場内の鳥獣殺生の禁止
(六) 村内乗馬の制限
(七) 強訴・徒党の禁止
(八) 年貢の期限内納入、納入時の手続き
(九) 年貢納入の期日
(十) 年貢俵の規定
(十一) 年貢米蔵番の服務規定
(十二) 隠田の禁止
(十三) 無許可の田畑売買の禁止
(十四) 山野の草木無許可伐採の禁止
(十五) 印形の保管
(十六) 諸色人足の精勤
(十七) 村役人への恭順
(十八) 訴訟手続の遵守
(十九) 若者組非分の禁止
(二〇) 他村への勝手出奔の禁止
(二一) 盗人・盗物の詮議
これを一見して明らかなように、その内容は五人組帳前書と同一であり、領主法令の遵守を規定したものに他ならない。後書(あとがき)には、「右御法度書之趣逸々御読聞セ承知奉レ畏候、然ル上者自今以後遺無レ之様急度相守可レ申候事、依而惣百姓連印を以差上申候」とあるように、村役人に対する小前百姓の服従を成文化したものであった。このことは(十七)(十八)に明確に記されている。すなわち、村役人からの伝達事項は正確に理解すること、そのうえで異論があれば村政機構を通して名主へ申し出ること、強訴・徒党はおこなってはいけないし、機構を通さないで願望をした者は罪科を申しつける、と規定されているのである。支配者たる領主の代弁者としての村役人の位置・権限が明確化されて、小前百姓が村役人の指示に従うことを誓約する形をとったのが、この村中法度であった。
それでは、右のような内容をもつ村法は、いかなる契機により成立したのであろうか。福島村の惣百姓の自発的な意志に基づいたものであろうか。おそらく、この村法は福島村農民の意志表示ではないであろう。福島村の村法は管見する限りでは、この安政四年のもの一点のみであり、以下の考察は推測の域をでない。この村法は、形式もしくは雛形を領主から提示されて、福島村村役人によりこの村の実情に合うように、若干の加筆訂正がなされたものではないだろうか。このように仮定するならば、この形式の村法は、一定の期間ごとに繰り返し惣百姓に提示されて、惣百姓は半自動的に署名捺印せざるをえないものであったと考えられる。したがってこの村法は、安政四年に初めて成立したものではなく、かなり以前の時期から存在していたであろう。たまたま安政四年のものが、福島村の広福寺に保存されて、現存しているのであろう。
この福島村村法度は、まさに領主的村法の一典型である。領主は定期的に、惣百姓から法度遵守の誓約である連印をとることによって、村落支配を強固なものにしていこうとした。それでは、この福島村村中法度には、この村の農民たちの意志・生活は、まったく反映されていなかったのか。そうではなかった。まず第一に、領主法的村法を惣百姓に強制すること自体が、領主による村落支配の弛緩・不安定性を示している。領主による村落支配が安定しているならば、あえて惣百姓連印を求めなければならない必然性はないのである。第三章第二節第二項・第五章で明らかにする、昭島市域をめぐる幕末期の不安な状況をみれば、納得できるであろう。
この村の人々の生活を反映したものとして、第二に、この村法の何ケ条かにある、違法行為に対する具体的な罰則規定をあげることができる。それを列記してみよう。
(三)博奕・博奕宿をした者…過料銭三貫文。野辺山林における博奕は同断、ただし山主は銭一貫文。
(十四)山野で濫伐をした者。生木を切った者は過料一貫文、下草を刈った者過料銭五〇〇文、落葉をみだりに掃き取った者過料五〇〇文。
この博奕・山野濫伐には、具体的な罰則規定があった。違反行為はその内容により、段階付けされた過料刑に処せられていた。この背景には、領主の政策意図とともに、農民生活・農業経営の実態をうかがうことができるのである。