享和二(一八〇二)年九月、拝島村でのできごとである。拝島村三給の小前百姓あわせて一五三人が、村役人衆へつぎのような連印状を提出した(史料編三三)。
村法度がございますが近年猥りになっております。そこで今度、村中の野を荒している者の名前を入札いたしまして、箱を開けて糺した結果、違反した者は規定どおりの過料銭を差し出します。このうえは、いかなる咎めを請けようとも、そのおりに一言の苦言も申しません。
この連印状の提出された背景を考えてみよう。この時期には、拝島村においても村法がとりきめられていた。その内容をまとめてみれば、
(一) 公儀法度の遵守・年貢の期限内納入
(二) 博奕の禁止
(三) 大勢の集会禁止
(四) 他村不審者の滞留禁止
(五) 火の用心・消火義務の規定
(六) 困窮者の相互扶助
(七) 入会規定
茅苅候者過銭 銭二貫文
作毛荒候過銭 〃五貫文
立木伐候過銭 〃三貫文
草刈候過銭 〃一貫文
草葉はき候者 〃五〇〇文
となる。治安・防火・山野濫伐の項目に重点をおいた村法であった。このうち、山野濫伐禁止の条項に違反する者が続出し、村役人としては放置できなかった。村法のこの条目には、違反者を見つけたならば遠慮なく名主・年寄・五人組へ届け出ること、もし隠しおいて後日になって判明した場合は、隠しおいた者にも違反者同様の過料銭を差し出させる、と規定されていたが効果はなかったのである。この入札の結果は不明であるが、田畑山野の濫伐がいかに重大な事態となっていたかは、容易に想像できよう。
山野の濫伐は、いわゆる山盗・畑盗・畑荒しであり、ようするに入会規定への違反であった。近世の村法を通観すると全国的な傾向として、この入会規定違反の条項がかなりの比重を占めている。これは、それだけ農民経営に切実だったからであろう(前掲上杉論文)。昭島市域の村々においても、この傾向は同様であった。
慶応三(一八六七)年三月、拝島・熊川・上川原・大神・宮沢・中里新田・殿ケ谷新田・田中の八ケ村の名主は、入会規定の罰則強化を骨子とした取極を共同でつくり、それぞれの村役人衆へ通達している(史料編三七)。山野の濫伐や田畑荒しの対策に苦慮した村役人層が、一村限りでの取締りでは効果があがらないので、連帯して対応しようとしたものであった。まず、この「為二取替一申取究議定一札之事」の内容を一ヶ条ごとにみておこう。
(一) 田用水を干して魚をとった者…高札場へ三日間さらし置く
(二) 稲を盗み取った者…過怠銭一〇貫文
(三) 明田で草を苅り取った者…右と同じ
(四) 畑方の作物を盗んだ者…右と同じ
(五) 青草・枯草を苅り取った者…右と同じ
(六) 野火をつけた者…右と同じ
(七) 生木・枯木を伐り取った者…右と同じ
(八) 落ち芝を掃き取った者…過怠銭三貫文
(九) 何品によらず盗品を買った者…過怠銭一〇貫文
濫伐違反項目の条項が整備され、その過料銭がきわめて高額になっている。過料銭の高騰は、幕末期における貨幣価値の下落を考慮してもあまりあるものであり、金額の統一化は、何によらず違反行為は厳罰に処するという村役人層の決意の表われであろう。さらに、田用水をめぐる違反は殊に厳しく、体罰刑とされていることが注目できる。
享和二年の拝島村の入札一件、慶応三年の八ケ村の濫伐禁止議定はともに、支配領域を越えた村々の動静であった。しかも問題の中核は、村落の生産構造に密接な関連をもつ山野の入会機能維持にあった。この問題における村役人層の意識・行動規範は、領主法の下達による村落維持ではなく、自らの経営維持を基盤にすえた村の成り立ちを重視したものであった。ここに、領主的村法とは異質の側面を明瞭にみることができよう。