D 濫伐と博奕

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 これまでにみてきた福島村・拝島村の村法は、その法的性格に限ってみれば、領主的村法と規定されるものであった。けれども、現実の村落内において、村法は村役人層-小前百姓層との関係を規定するものであった。それは、惣百姓連印といいながらも、村法は、一般の農民たちが連判して村役人へ違反なきことを誓う、といった形式をとっていることより明らかである。(なお福島村の村法は、村役人をも含めて惣百姓連印の形式をとっているが、村役人の連印は一般の農民とは歴然と区別されている。)村役人層-小前百姓層の関係は、経営規模の面でみれば、ほぼ上層農-中下層農との関係であった。村法のなかで、この両者の利害対立が反映される場合には、当然のことながら、その事項に関する条目の占める比重は高く、またその記述は具体的であり厳密であり多岐にわたっていたと考えられる。村法のなかでこの条件にあてはまるものは、山野濫伐と博奕に関する規定である。この二つについて、中下層農の経営形態との関連で述べていきたい。
 山野濫伐をめぐる村法の背景には、中下層農民による頻繁な入会規定違反があった。このことは、村役人の眼には、村落秩序の違反からひいては村落秩序の動揺として映った。だから、村法の細目制定にあたって、厳密な内容記載と罰則規定の成文化となったのである。それでは、中下層農の頻繁な入会規定違反は、なぜおこったのであろうか。ここで、入会規定違反の具体的な内容を村法の記載からあげてみると、茅苅・生木枯木伐・青草枯草苅・落芝掃取・野火付などである。これらはすべて堆肥など自給肥料の原料であった。近世中期以降に新たに栽培されるようになった商品作物は、いずれも肥料の多寡が収穫量に大きな影響を及ぼすものであった。肥料としては効率の良い金肥が望ましかったが、肥料価格高騰のなかで中下層農民は十分な量を確保できなかった。そこで、自給肥料への依存度は、富裕な上層農の経営よりも大きかった。しかしながら、享保期の新田開発による入会秣場の減少・消滅は、自給肥料の確保さえも困難にした。このような状況下で、中下層農は少しでも多くの自給肥料を確保するために、入会規定に違反してでも、茅・青草などを収集しなければならなかった。彼らにとっては死活問題であったのである。
 村法における罰則規定が強化されても、なお山野濫伐が減少しなかった理由は、ここに求めることができるであろう。また、享和二年の拝島村における入札という密告制を、村役人が採らなければならなかった理由もはじめて理解できるであろう。けれども、肥料の確保は、中下層農民に共通のことがらであるだけに、入札は実質的な効果をあげえたのであろうか。
 つぎに博奕の問題に移ろう。博奕もまた、村法には具体的に多岐にわたって禁止項目が並んでいるものである。博奕の禁止規定は、村法のみならず、触書・廻状などの領主法にも頻繁に登場している。幕藩領主には、博奕が射倖心をあおるものであり、農業経営を疎かにし、年貢を怠り、家財を喪失し、さらに博徒をはびこらせる元凶と認識されていた。博奕は、風紀・治安・道徳などの見地からも、きわめて有害なものとされていた。けれども、近世を通じて博奕はさかんに行なわれ、その種類も多様であった。いわゆる博徒は、ふつうの農民と博奕をして金銭をまきあげることを生業としたものであった。したがって、博奕はかなり広汎な農民のあいだにひろがっていたとすることができよう。事実、人目を避けて「野辺山林等ニ而茂有之候」(史料編三五)と記されている。現代においても、考古学発堀現場付近の洞穴よりしばしば近世の博奕道具類が発見されるという(本市史考古学担当調査員市毛勲氏談)。
 それでは、近世における農民、とくに村法にみる限りでは中下層農民に、博奕が盛んであった理由を考えなければならない。前項の最後に述べたように、中下層農民の経営は、十分に施肥ができないために、予期した収穫をあげることができず、上層農の経営との格差は拡大していった。他方で、年貢増徴や金肥高騰により支出は増大して、中下層の経営状態は慢性的な欠損状態の悪循環をくりかえしていった。耕作に必要な金肥を確保できなければ、作付面積を減少させるか、単位当りの施肥量を減少させるしか、経営を維持する方法がなかったからである(註一〇)。その対応策としては、自給肥料の確保・他地域への出稼ぎなどとともに、博奕があったと考えられる。博奕に経営維持のために必要な金肥購入費の調達を夢みた農民は少なくはなかったであろう。
 けれども現実に、博奕による収入で農業経営を維持しえた農民は皆無同様であり、大部分は没落の速度を早めたのであろう。それは、村法による厳しい規制の存在によっても明らかである。
  註補
 一 「品々書上帳」の書式は史料編三〇を参照されたい。
 二 伊藤好一『江戸地廻り経済の展開』
 三 伊藤好一「江戸周辺農村における肥料値下げ運動」(『関東近世史研究』第七号)
 四 『草木六部耕種法』は、一九世紀初頭に著された、農業上の科学的技術書であり、栽培すべき草木を根、幹、皮、葉、花、実の六部に分類して、それぞれの栽培法を詳しく記したものである。
 五 渡辺信夫「街道と水運」(岩波講座『日本歴史』10)
 六 この往還路は『新編武蔵風土記稿』には「日光街道」と記されており、現在(昭和五十三年)も昭島の人々はそう呼んでいる。他方『八王子市史』では「日光道中」としている。けれども、これらの呼称は、いわゆる五街道の一つで千住~日光間二一宿の「日光道中」(これが正式名称であるが、教科書などでは日光街道とも書かれている)と紛わしい。そこで、本市史近世編では、八王子~日光間の千人同心往還路を〝日光往還道〟もしくは〝日光道〟と記しておく。これは、註の冒頭に記した「日光街道」の呼称に異義を唱えるのではなく、たんなる便宜上の措置であることをご理解いただきたい。また近世においては「八王子通り」・「八王子道」(史料編四一・四二・四三)とも呼ばれていた。
 七 『八王子市史』による。
 八 このために、富裕農民による金融はしばしば「高利貸」といわれる。けれども、近世において、全般に金利は現代と比較するときわめて高かった。富裕農民-貧窮農民の貸借関係における金利のみが、当時の相場より高利であったわけではない。「高利」・「高利貸」とは、あくまでも歴史学上の用語である。
 九 上杉允彦「近世村法の性格について」(『民衆史研究』第七号)
 一〇 伊藤好一『江戸地廻り経済の展開』