組合村絵図
武蔵野の村々は、享保期における武蔵野台地の新田開発を直接の契機として、さまざまな面で大きく変っていった。この節では、いくつかの側面について述べていくことにしよう。
近世後半にはいると、全国的な現象として、貨幣経済が農村へいっそう浸透し、農民経営にとって商品作物の栽培が重要な意味をもつようになった。この傾向は水田地帯の農民経営に顕著にあらわれているが、畑作地帯の農民経営にとっても状況は基本的に同じであった。とくに金納年貢のためだけでなく、経営の維持・発展に従来以上により多くの貨幣取得が不可欠となっていったのである。近世後半における農村の成り立ちは、その村をとりまく種々の条件と無関係ではありえなかった。その村固有の政治的・経済的・社会的諸条件とともに、その村の属した地域全体の成り立ちとの関連が深まり、そのなかで村のすすむべき方向性が規定されていくのであった。この動向は、時代が下るとともに、ますます顕著になっていった。
さて、昭島市域をとりまく武蔵野の村々はどう変っていったのか。この変化の傾向は、さきに述べた全国的規模での変化と共通していると同時に、この地域なりの特質に基づくものでもあった。この地域の特質とは、
(一) 大都市江戸の周辺農村であり、経済的後背地としてのかかわりが次第に密接なものになっていくこと。
(二) 新田開発の結果として、農業経営における畑作中心の傾向が強まったこと。また、秣場の縮少・消滅により、購入肥料=金肥への依存度が強まったこと。
(三) 武蔵野地方・関東山地など江戸周辺地帯における商品流通が活発化していったため、それらを結ぶ水陸交通路の両方に接していたこと。
などがあげられよう。
それぞれについて、若干説明すれば、(一)については、江戸市街地の膨張と幕府の政策との関連をあげなければならない。江戸の莫大な消費物資を幕府統制下に安定的に供給するため、在方の商品流通機構を都市の株仲間に統制させようとした。これは、江戸周辺の農村で生産されていた多種多様のいわゆる地廻り商品が、一八世紀半ばすぎから江戸へ活発に流入するようになったことを前提にしている。幕府は、この地廻り商品の展開に対して、在方の商品生産者を都市特権商人の系列下に再編成しようとした。この政策は、農民による商品生産の成果を、都市特権商人を通して吸収しようとするものであった。つまり、農民は従来からの年貢負担に加えて、新しい商品生産においても、都市特権商人を通して間接的にではあるが、新たな負担を強いられることになった。したがって、新たな商品生産の進展により販路としての江戸との結びつきを強めていったが、農民経営は必ずしも順調に発展したわけではなかった。
つぎに、(二)の新田開発の影響であるが、これは次のような結果となってあらわれた。武蔵野の開墾により新たに創出された田畑は、畑方の比率が圧倒的に大きかった。このために、武蔵野地方の村々は畑作中心の色相をさらに濃くして、いわゆる雑穀生産地帯として特色づけられていった。また、開墾地のほとんどは劣悪な土壤であったため、多くの施肥を必要としたことに加えて、秣場の減少は金肥への依存度を高めることになった。農民たちも雑穀生産や商品作物の栽培に、有効性の強い肥料として、下肥・糠の使用を強く望んだ。ところで糠は江戸の糠問屋の取扱うものであった。享保期頃には農民が江戸へ駄賃稼へ行った帰りに、糠を買ってくるといった程度であったが、十八世紀半ばすぎから、農村部で糠を扱う在方商人が発生してきた。この新たに生まれた商人は、しだいに取扱い規模を大きくして、糠を大量に買い込み、自分の村はもちろん近隣の村々へも売り込むようになった。肥料商人は資力のある上層農民の兼業したものが多かった。中下層農民は糠の買入金にさしつかえると、肥料商人から肥料の前借をすることになった。借りなければ作物栽培ができないからである。借り入れる糠の価格は通常の価格よりも相当に高く、返済を収穫した穀物でする場合には、その穀物は相場よりも安価に買いとられたという(註一)。中下層農民は、幕藩領主による年貢増徴の重圧と上層有力農民との金融貸借関係により、経営が破壊され離散する者もみられるようになった。商品生産の高まりは必ずしも経営の安定とはならなかったのである。たとえば、上川原村で延享三(一七四六)年に一五七人であった人口が、明和五(一七六八)年には一四二人と約一割も減少しているのは、右に述べた状況と無関係ではあるまい。このような離村農民の増加傾向のもとで、幕府は安永六(一七七七)年に、農民の江戸出稼ぎを制限する法令をだしている。
(三)の交通路の問題は、昭島市域の村々をとりわけはっきりと特質づけるものである。詳しくは後述するので、ここでは背景のみを述べておきたい。すでに述べたように、享保期新田開発の結果として武蔵野の村々は畑方農村の様相を濃くした。これに対して、武蔵野台地の西端に接する関東山地の村々は、林業を生業の中心とする山村の形態をしだいに明確化していくことになった。関東山地と武蔵野台地の境界の渓口に分布した青梅・五日市などの在方市は、山村と平野部さらに江戸を結ぶ商品流通の結節点であった。昭島市域は、この在方市と、府中から甲州街道をへて江戸へつながる商品輸送路の途中にある村々であった。それだけに、従来から比較的他域の村々との経済的接触が大きかったことに加えて、林業関係の商品輸送が活発になるにしたがい、村びとの接触する経済領域は広がり、頻度も増大していった。このことは、市域の人々の経済活動のみならず、視野・意識のうえにも重要な影響を及ぼしていくことになった。
以上述べてきたような新しい社会諸状況のもとで一八世紀後半に入ると、人々の生活を成り立たせる条件は大きく変化していくことになった。まず、自然条件の問題から述べていこう。