B うち続く災害

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 一八世紀半ばから数十年間、関東一帯はうち続く災害に悩まされ続けた。ことに宝暦~天明年間(一七五〇~八〇年代)は、三~四年に一度の割合で旱魃・洪水などに見舞われた。
 昭島市域の村々は多摩川治いにあったため、その影響を強くうけた。一九七〇年代の今日に至っても、時として河岸の住宅を押し流してしまう多摩川である。まして当時の治水技術の水準では、水流を十分に制禦することは極めて困難であり、わずかな天候の変動がたちまち大きな洪水となって、流域の村々に深刻な影響を及ぼしたのであった。もちろん、流域の村々は洪水をただ手を拱いて傍観していたわけではなく、連年多大の労力と資金を投入して、護岸の普請を施していた。しかし、重い貢租を負担しながらの普請は、きびしい自然条件のまえにはいまだ力不足であった。市域ではもともと水田が少なかったけれども、ほとんどが多摩川沿いの河川敷にあったため、しばしば冠水し、ときには土砂に埋ってしまった。
 昭島市域の災害は、洪水だけではなかった。享保期における武蔵野台地の開発は、それまで不毛の地として顧られなかった荒地を畑地にしたものであったため、旱魃による被害を蒙りやすかった。台地は典型的な乏水性台地であり、地下水位は深く、また用水路も不十分で、天水にたよる割合が大きかったためである。したがって、日照りが続けばたちまち旱害におびやかされた。
 自然災害による凶作は、しばしば飢饉となった。ことに一七八〇年代における全国的な飢饉は、「天明飢饉」とよばれて、享保・天保のそれとともに、近世の三大飢饉の一つにかぞえられている。この天明飢饉の直接の原因は、稲の生育期における低温多雨という自然災害であり、その被害は東北地方に著しかった。けれどもこれは、いわば一八世紀後半における経済的・社会的原因の集約された一連の凶作状況として、理解しなければならない。一連の凶作状況とは、宝暦五(一七五五)年の全国的飢饉を出発点として、洪水・旱魃・伝染病・虫害などがあいついで、天明三(一七八三)年の浅間山大墳火へと連なるものである。この相ついだ凶作により疲弊した農村に対して、幕藩領主による年貢増徴政策の一貫した実施という苛政が、天明年間にいたり大飢饉をひきおこしたのであった。つまりこのことを人間にたとえれば、年貢増徴政策による過労状態のもとで、自然災害という風邪を何回かひいて、これがこじれて肺炎になり、ついには危篤に陥って生死の境をさまよった、とでもいえようか。
 一八世紀後半における昭島市域の村々は、危篤状態には至らなかったが、風邪は何度かひいていた。この時期には、しばしば「夫食拝借願」が、領主に提出されている。これは、凶作のために農民の食糧(夫食)が欠乏し、農民生活が立ちいかなくなったので、食いつなぎの資金を貸してほしいと願い出たものである。
 ここで、昭島市域を襲った災害のいくつかをひろってみよう。まず、多摩川の洪水による被害であるが、古くは上川原村が中世末と推定される洪水で流されて、現在の場所に移転している。近世に入ってからでは、一村単位のものとしては、貞享二(一六八五)年に作目村が全村壊滅、文化八(一八一一)年に築地村が悉く流されたときのものが大きい。
 幕末の安政六(一八五九)年には、七月一二・二五・二九日の三回にわたって大洪水がおこり、中神村一五戸・福島村二五戸・宮沢村四戸が、流失もしくは破損を蒙って、それぞれ台地面に替地を得て移転している。このときの様子を七月二五日の場合で詳しくみてみよう。
 この日の正午頃より水量が増えはじめ、夜八時頃には低い土地には水があふれていた。宮沢村の阿弥陀寺境内では一メートル以上の水丈があり、人が通ることはできず、あたり一面は水没していた。また、福島村では広福寺の門前に舟を着けて、冠水した家々との連絡にあたった、とされている(註二)。
 右に述べた人家の被害にも増して、低地にあった水田の被害は、いっそう頻繁でありまた損害も甚大であったであろう。おそらく、小規模の洪水による被害は枚挙のいとまがないほどであったのではあるまいか。
 他方、旱魃の被害はどうであったか。明和七(一七七〇)年は大旱魃がこの地方一帯をおそった年であった。この年の江戸の気象・世相を、『武江年表』からひろってみよう。
  ○五月より八月迄、諸国大旱(近在、稲に虫つき、江戸も虫飛び歩行(あるく)。俗に此の虫をカチと云ふ。麦稗も貴し。野菜物、肴の価より貴し。閏月、神奈川の鯛三千喉余り死す。海は苦塩と云ふもの出で、魚ことごとく死す)。
  ○六月上旬、星月を貫く。
  ○七月二十八日、夜乾(いぬい)の空赤き事丹(たん)の如し。
  ○此の冬、犬多く死す。
 すでに明和年間(一七六四~七二)だけでも、二~三年の大雨による出水、六年の大暴風雨、八年の大風などの災害が相ついだ。人々の心は神だのみにはしって、大規模なおかげ参りの現象をひきおこした。こういう状況のなかで明和七年夏から秋にかけて、江戸では近郷の稲についた虫が飛びまわり、米価のみならず、麦・稗までもが高騰した。ことに野菜類は魚よりも高価になるという状態をひきおこした。巷には不吉な流言飛語がとびかい、不穏な状況が深まっていった。それはことに、夏から秋にかけての近郊農村の旱魃がもたらした雑穀・野菜の高騰によるところが大きかった。
 この年の上川原村の状況は、翌明和八年三月の「夫食拝借御請書差上ケ扣覚帳」(指田万吉家文書)によれば、「去寅年(明和七年)夏中照続田畑旱損仕候」と記されているだけである。けれどもその旱損の被害は相当なものであったらしく、「夫食差詰雑儀至極仕候ニ付、夫食拝借之儀奉願上」ったのであった。代官所は実情調査のうえ、男一人につき米二合、女は一合のわりで夫食を貸し与えることにした。この夫食は、米一石一斗につき金一両の換算率で計算され、村全体では金二両二分永二三八文七歩四厘であった。なお、返済は明和九年から五ケ年賦とされた。この時期には、幕府の財政はかなり窮乏しており、一般的には夫食の貸し出しを抑制する傾向にあった。それにもかかわらず、これだけの貸し出しがおこなわれたということは、上川原村の明和七年における旱損の被害が甚大であったことを示しているとみてよいであろう。