C 宮沢村の水害

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 多摩川の洪水による被害状況を具体的に記した文書は、管見した範囲では一九世紀に入ってからのものしかない。けれども、一八世紀後半と一九世紀とでは、治水技術に大きな段階差はなく、したがって両時期における水害の様相は、基本的に同一であったと考えられる。そこで、一九世紀の宮沢村における水害の様子をみることで、一八世紀後半の水損状況の一端を把えていこう。
 宮沢村の景観は、『新編武蔵風土記稿』によれば、つぎのとおりである。
  ……東は中神村に接し、南は多摩川を踰て平・粟之須両村に堺ひ、西は大神・上河原の二村に隣り、北は砂川村に及ぶ、東西僅に三町許、南北凡十丁余、土性真土、砂川村境は野土なり、水田多く陸田少し、多磨川の分水を引て灌漑とす、……民戸五十軒、耕作の外多磨川に出て漁猟をなして生業とす、……又元文元年大岡越前守忠相改し持添新田あり
 ここで注目できることは、「水田多く陸田少し」である。昭島市域九ヶ村のうちでは、唯一水田の多い田方中心の村であった。河岸付近の土質は「真土」であり、武蔵野地域ではめずらしく肥沃な土壤であった。村高は当時四二〇石七斗六升一合で、天領と二つの旗本領からなっており、三給の村であった。ここでは、旗本中根氏給知分の水損状況をみておこう(ことわらない限り、小町晴彦家文書による)。
 中根氏の給知の概要は、第1表のとおりである。まず文政六~七(一八二三~四)年の多摩川大洪水による、川欠損地の状況は「両年度々満水仕、……田方川瀬ニ相成候」というもので、具体的な被害の実態は第2表に示したとおりであった。中根氏給知だけでも、反別の一八%が水没したのである。

第1表 中根氏給知の概要


第2表 文政6-7年水損田一覧

 村全体の堤防の被害は、切損箇所のみでも三ケ所、長さ合せて一七九間(約三二五メートル)におよんだ。この修復は国役御普請として実施され、一応完成したのは文政一〇年であった。この期間に動員された人足は延べ一五、二二九・五人にのぼり、費用の総額は金四一一両余を費した。人足動員数と比べて費用総額が少ないのは、人足一人が米一升七合の夫賃で動員されたためであった。文政一〇年二月の八王子米価で換算すると、金一両で人足五七六人分の手当になる。宮沢村のみならず周辺の多くの村々から、農民たちが人足として動員されたのであった。普請が修了したとき、宮沢村三給の村役人は、
  ……平日無油断見廻り小破之場所者手入村繕ニ仕、出水之節者昼夜共村役人共人足召連罷出相防、大破切所ニ不相成様可致……
ことを誓約している。
 この文政の大洪水ののち、天保一一(一八四〇)年に、またしても洪水となって、中根氏給知だけでも字八反田にあった田が被害を蒙り「川欠損地」となった。その規模は反別一反六畝一二歩で、取米一石二斗二升三合の上・中田四筆分であった。
 このたびかさなる水損は、三給分あわせるとかなりの石高にのぼった。第3表は弘化二(一八四五)年の「村高書上帳」により、この年の村の耕地状況を示したものである。村全体では平均して石高の三四・六%が「前々川欠損地」となっている。さらに翌弘化三年七月に、多摩川は前年に引き続いて洪水をおこし、中根氏給知では上田を中心として七反六畝二五歩の新たな欠損地をうみだした。

第3表 宮沢村川欠損地石高

 近世をとおして、多摩川の洪水は流域の人々に多大の損害を蒙らせ続けた。当時の過重な貢租負担のもとにおける経済力と治水技術では、十分な対策をたてることができず、洪水の危険が近づくたびに、人々は多摩川の水量に一喜一憂し続けたことであろう。