一八世紀後半における、旱魃の被害を具体的に記した文書もやはり現存しない。そこで時期は下るが、文政四(一八二一)年における上川原村の旱損状況を示した文書を紹介しておきたい。当時の畑作農村の作付の様子も詳しく記されているので、やや長文になるが、全文を現代語訳しておこう(史料編九四)。
恐れながら書付をもってお願いいたします。
武州多摩郡の左の村々(村名不詳)の村役人の者たち一同申しあげます。この村々は武蔵野周辺にある、畑方が多いか畑方ばかりの村々です。本年は春から旱魃による損毛がうち続き、麦作はかなり収納いたしましたが、蚕は全滅同様でした。そのうえ、秋作はすべて不作で被害が多く、粟・稗は三、四分作、大豆・小豆・芋等は種もありません。夏・秋の御年貢上納は小百姓一同大変差し支えましたが、軽視できない御年貢のことですから、それぞれに他村の者へ田畑を質入したりして、二期分の御年貢は遅滞なく上納いたしました。この米の件は荏・蕎麦の収穫で冬期上納の御年貢にあてようと算段し、先日は御検査をお願することをさし控えておりました。ところが、荏・蕎麦も悉く虫害を蒙ったものが多く、そのうえ霜で痛めつけられ、ようやく一、二分だけ収穫できました。菜・大根は全滅で、御年貢にあてるものはありません。もはやはっきりと食料も滞るようになって、小百姓一同こぞって歎き、困難なことはこのうえもありません。そこで、御検見で廻村している所へお願い申しあげようかと、村々で相談いたしました。けれども、重きお役目の廻村をしている場所へ、願い出ることは恐れ多いと考えて、遠慮しておりました。ところが、小百姓たちがほとほと困り果てて、歎きぬいておりますので、やむをえずお願い申しあげます。もっとも、時期はずれになって恐縮ではありますけれど、なにとぞ格別の御慈悲により、御年貢を割り引くと仰せられますならば、甚大なるお憐みとしてありがたく存ずる次第であります。
おそらく、さきに述べた明和七年の旱魃もこのようなものであったと思われる。
自然災害に基づく凶作は、重い年貢負担とともに、農民経営をより困難にしていった。とくに凶作の影響は、経営基盤の弱かった中下層の農民に深刻な打撃を与えた。この農民たちは田畑を質入れするか、子女を奉公に出すことよりほかには、対処の仕方がなかった。田畑の質入れは、実質的には譲渡と同じであった。事実、上川原村では寛政九(一七九七)年の段階で、
当村高八拾八石余有レ之内、弐拾石余隣村殿ヶ谷新田組頭長兵衛外七人、同十石余宮沢新田組頭平八外五人、都合三拾石余両新田入作仕候(指田十次家文書、寛政九年六月・乍恐以書付御訴訟奉申上候〔高掛分諸入用滞納出入訴状〕)
という状態であった。村高のうち約三四%にあたる三〇石が他村の者に渡されていたのであった。
一八世紀後半になって武蔵野の農村においては、一方で農村への商品流通・金融の広汎な浸透、他方であいついだ凶作と年貢の重圧により、農民経営のあり方がそれまでとは質的に大きく変っていくことになった。従来のように、主穀・雑穀の生産を中心とした経営だけでは、時代の流れに対応できなくなっていた。この新しい潮流のなかで、ある者は経営を拡大し、ある者は没落していった。商品生産およびその流通、さらに金融に積極的にかかわり、またかかわる資力をもった農民は、富裕化し経営を拡大していった。没落した農民から手放された田畑は、富裕化した一部の上層農民のもとに次第に集められて、貧富の差・経営規模の大小の差はいっそう大きくなっていった。
このようにして、一八世紀後半以降、農民は一握りの富裕な地主層と、多くの零細な自作農・自小作農・小作農などに分かれていくことになった。