一八世紀後半は関東一帯で、農民一揆の多発した時期でもあった。それとともに、一揆や訴願運動の形態に従来とは異なる新しい特徴がみられるようになってきた。従来の形態とは、農民の連帯・結合に限ってみればその支配領域ごとに限定されていたものであった。これに対してこの時期の一揆は、支配領域をこえて連帯したという意味での広域性をもっているところに特徴があった。
この広域性をもった農民の抵抗は、深谷克己氏によれば、次の四種類に分類される(註三)。
(一) 公儀役である助郷負担強化に対抗するもの。
(二) 公儀主導の流通支配に対抗するもの。
(三) 主穀の流通・価格問題を中心とするもの。
(四) 国訴。幕府の流通機構再編成政策に対して、在郷商人層を含む生産者農民が対抗した順法的訴願。
このうちで、この時期の関東地方でいえば、(一)に相当するものは明和元年(一七六四)年のいわゆる「伝馬騒動」、(二)に相当するものは天明元年のいわゆる「上州絹一揆」がもっとも典型的である。これらの一揆・騒動と、昭島市域との直接的なかかわりは認められないが、一揆の背景となった現象は本市域にも同様に存在したと考えられるので、簡単に触れておきたい。
伝馬騒動は、信濃・上野・下野・武蔵にわたる幕領・大名領・旗本領の農民数万人が助郷の強化に反対して、強訴(ごうそ)・打ちこわしに及んだものであった。この騒動が、きわめて激しい打ちこわしをともなったのは、たんなる労役徴発の増加のみではなく、宿駅・助郷制度そのものの矛盾が商人資本による農民支配の強化の形態をとって現われたからであった。
上州絹一揆は、西上州の村々約三〇〇〇余人が、絹糸貫目改所設置計画に参加した有力者約数十軒を打ちこわしたことを中核にしたものであった。この有力者とは、絹物流通の独占をはかった一部の村役人・問屋商人たちであった。彼らは、本項の冒頭で述べた幕府による在方の商品流通機構の統制強化政策に迎合し、運上金上納と引きかえに改所を設置し印料徴収を認められた者たちであった。改所の設置により、三都の呉服問屋仲間や仲買の取りひき拒否にあって、売り先を失った生産者が、右の行動にでたのである。上州では、絹織物の原料生産地・加工業地など地域的分業が展開していたため、一揆は東上州における都市商人の江戸愁訴、桐生領農民の越訴というように、地域によって参加者の階層的な広がりと運動形態の相違をふくみながら、広域闘争としておこされたものであった(註四)。
天明年間(一七八一~八八)は天候不順で、全国的に凶作・飢饉に見舞われた時期であった。天明三(一七八三)年は武蔵野地方も雨天続きで、まず麦作が大きな被害をうけた。六月には隅田川・江戸川が出水し、つづく七月初旬には浅間山の大噴火により、関東一帯では砂灰が作物に降りそそいだ。このため大飢饉がおこり穀物値段は高騰した。けれども、農村部へは何の手当もほどこされることなく、人々の生活は悲惨をきわめたものとなった。多摩郡では、翌天明四年二月二八日夜、ついに大きな打ちこわしがおこった。箱根ヶ崎(現瑞穂町)池尻に集った近在の農民はその数知れずといわれるほど大勢であった。彼らは狭山丘陵南麓を東に向い、道筋の問屋などの富裕農家を次々に襲っていった。富裕農民に対する直接の不満は、肥料値段のつりあげであった。この打ちこわしは高木村(現東大和市)まで及んだ。その後も肥料値段は高相場をつづけ、寛政二(一七九〇)年には武蔵野の一〇〇ヶ村近くに及ぶ広域の村々が、肥料値段引下げの嘆願書をだしている(註五)。
この時期の農民騒動は、田沼意次政権の都市商業資本にたよろうとする経済政策への抵抗であった。続発した自然災害による凶作・飢饉、年貢賦課の増大、特権的問屋の手による商品生産・流通に対する統制・課税、などの幕藩領主や都市・在方商業資本の圧迫により、中下層農民の経営が危機に見舞われていたことへの抵抗であった。この危機状況は騒動発生地域に限られたものではなく、昭島市域をも含めて、ひろく関東一円さらには日本全体に共通なものであった。