A 八王子市(いち)

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 近世の農民経営において、農業生産や農民生活の維持に必要な諸物品は、すべてを自給できるわけではなかった。また、年貢や小物成の一部分は、近世初期から貨幣納であったうえに、畑方年貢は当初よりすべて金納であった。だから近世の農民は本来的に一定程度の貨幣取得を必要とした。さらに、田方年貢も近世中期以降は石代納(こくだいのう)=金納の傾向にあった。そこで、農民は生産・生活を支え、年貢をおさめるために農作物の一部分(もしくは大部分)を商品として売ることによって、貨幣を取得しなければならなかった。農民は、近世の初頭からある程度は売ることを目的とした作物、つまり商品作物を栽培していたが、時期が下るにしたがってその比率は増加するようになった。近世中期以降、農民経営は貨幣経済とのかかわりを必然的に強めていった。では、農民は農作物をどこへ売ったのであろうか。それは、農村部のあちこちに存在していた在方市=在郷町であった。
 在方市は、幕藩領主により設定された町場で、地域流通の結節点であった。そこは、農民が自給できない物資を買い求めるところであり、都市向けの商品として農作物を商人に売りはらうところでもあった。いわば都市と農村との物資流通の中継地であった。昭島市域の村々にとって「最寄之市場」とは、多摩川を越えて二里(約八キロメートル)ほどのところにあった八王子であった。
 八王子は甲州街道と日光(往還)道の宿駅で、軍事・交易・交通の三つの側面をもつ、武蔵野地域の一つの中心地であった。近世初頭にこの三つの側面をもつ地方都市として建設されて以来成長をつづけ、貞享年間(一六八四~八七)には、横山・八日市・八幡宿・八木宿・久保宿・島坊宿・本郷・小門・上ノ原・寺町・子安・新町・本宿・横町・馬乗宿の一五宿がさかえていた。横山・八日市両宿を本宿とし、それに街道沿いの八幡・八木両宿を加えた四宿を中心に発展してきたもので総称して八王子とよばれた。ところで、八王子町では、横山宿・八日市宿に六斉市が開かれていた。毎月の四日・一四日・二四日には横山宿に、八日・一八日・二八日には八日市宿に市が立った。昭島市域の村々の明細帳にしばしば、「八王子ニ四・八之市(いち)立申候」と記されているものである。
 元祿一五(一七〇二)年の八王子宿の職業構成では、農業から完全に分離していると考えられる諸色(しき)商売人・諸職人は二八九戸で、全体の四〇%にあたっている。そのうち諸色商売人は一九〇戸であった。この市場の主なる取扱品目は、絹・紬・袴縞・糸綿・小間物・麻・繰綿・紙・木綿布・穀物・肴塩・茶・煙草・竹・長木・薪炭などであった。諸商売人のうち最も多いのは穀物商の五六軒、ついで小間物屋二〇軒、太物商一六軒、糀(こうじ)商一〇軒、絹商八軒などであった。つまり八王子市の商業の中心は、穀物商と糸商とであった。昭島市域の人々もこの市へ出かけていき、主穀・雑穀などを売却し貨幣をえて、必要な小間物・肴塩などを買い求めたのであろう。
 やがて一八世紀後半に入り、農民の経営に商品生産が大きな比重をもつようになると、八王子町の商品市場としての役割はいっそう大きくなり、市(いち)の意義は重要度を高めていった。それとともに、市はその性格を変えていくことになった。一九世紀にはいり、八王子周辺の農村で養蚕・製糸・織物の生産が、それぞれまとまりをもった地域的分業として発展してくると、市の取扱品目はそれら織物・生糸が中心を占めるようになる。近世中期までの市の主要品物であった穀物や日用品は多く定棚(じょうだな)、つまり常設店舗へ移っていき、四・八の市は、織物・生糸を中心とする集荷市へ質的変化をとげていくのである。
 綿織物と絹織物とは、当初は別々の商人に取り扱われていたが、近世中期にいたり一つの織物市に統合され、宝暦年間(一七五一~六三)以降は縞模様の織物の取引がもっとも代表的だったため、市のことは「縞(しま)市」、取りあつかいの商人は「縞買」とよばれるようになった。縞市は、四の日には横山宿に、八の日には八日市宿に立てられ、それぞれ取引きは午前八時~一〇時ごろまでであった。そのあとで、他の諸市が取引きを始めたのである(註六)。昭島市域の人々も、まだ暗いうちに家を出て二里の道程を八王子へ出かけ、織物類を売って代金を請けとり、その代金で必要な諸品を買って、家路についたのであろう。