B 在方市としての拝島村の概況

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 拝島村は、昭島市域の西端にある大村で、近世を通じてこの市域の村々のうちで、最大の面積と最大の人口を保っていた。この村は、市域の他の村々とは異なって、町場を形成していた在郷町であった。八王子に駐屯した千人同心が日光へ赴くおりの往還道の宿駅で、南は八王子、北は箱根ヶ崎とのあいだで人馬の継立てをやっていた。やがてこの宿駅に市が立つようになり、街道に沿って町場の景観をとるにいたったと考えられる。第4表は、天保一二(一八四一)年における拝島村の領主・石高・家数を示したものである。家数一五九軒は、街道に沿って並んでいたようであるが、むろん全戸が純粋な商人や職人ではなく、農業経営を兼業する者が大部分であったと思われる。

拝島村の家並(昭和32年頃)


第4表 天保12年拝島村領主・石高・家数の一覧

 高橋源一郎氏は、その著書『武蔵野歴史地理』に、拝島宿の景観を次のように記している。高橋氏の著述は近代に入ってからの景観描写であるが、近世における様相も基本的には同じであったと推定されるので、引用しておこう。
  此処(拝島宿)は市場としては誠に典型的の場で、南、八王子の方より来れば、下宿の入口にて道路は画然一屈曲し、これより西北中宿を経て上宿となり、上宿の出口で又一屈曲して居る。而して三宿通じて最近まで用水堀が道路の中央を流れて居った。
 つまり、東から西に下・中・上宿の三つに分かれており、この三宿を貫通する街道の中央には用水堀が引かれていた。この宿の両方の出口は、それぞれ大きく曲っており、いわば宿駅の典型的な地割をみせていた、というものであった。つぎに、この拝島村全体の様相を、前節の宮沢村の場合と同じく、『新編武蔵風土記稿』よりみておこう。
  江戸日本橋より行程十一里、民家二百軒あまり、東西の宿に連住せり、ここは八王子より日光への街道に係れり、村内を上中下の三区に分ちて、西を上とし東を下とす、地形平夷にして多磨川に臨めり、水田陸田相半して、土性黒野土にて粗薄なり、……東西二十五町、南北一里ばかり、……昔年この所に毎月三九の日を定て立けるが、天明の比より廃せりと云、又村内宿と唱ふる所は、八王子より野州日光山の往還にて、人馬の継立をなす、八王子へ一里二十八町、箱根ヶ崎へは二里の馬次なり、村民耕作の余業には蚕桑紡織もて生産の資とし、又鮎猟の業をなし、江戸へ出てひさげり、因て運上永若干を毎年官に収むといへり、
 この記述の前半部分については、すでに述べた。そのなかで「民家二百軒あまり」というのは、必ずしも正確な数字ではないと思われる。けれども、幕末~維新期にかけて、拝島村の総戸数は大きく増えて、明治一三(一八八〇)年には二二七軒を数えた。このうち農業専業は四割弱の八六軒で、あとは諸商売・諸製造業・漁業を、専業もしくは兼業していたと記録されている。商業では、小売業をはじめとして旅館・飲食店が多く、製造業では各種の職人に加えて織物関係従事者が多かった(註七)。つまり、明治一三年の段階では、交通の要路にある在郷町の性格に加えて、織物業の盛んな町場であった。この拝島村の職業構成は、近世においても、化政期以降、すなわち一九世紀に入ってからのちの拝島村の発展基調のうえに位置していたのであろう。『新編武蔵風土記稿』引用部分の後半の記述も、農業のかたわらに織物業・漁猟に従事していた人々の存在を伝えている。
 つぎに、こうした拝島村のもっていたいくつかの側面について個々に述べていこう。