C 拝島の織物取引き

868 ~ 870 / 1551ページ
 近世中期以降、この地域の村々では、婦女子の農間稼ぎとして青梅縞・黒八丈などが織りだされていたことは、すでに述べたとおりである。この機織は武蔵野西縁部から多摩山地にかけての一般的な傾向であったが、やがて江戸市場を目ざす地方産業として発展し、それにともなって市を通じての集荷機構が整えられていった。多摩地方の絹織物は縞物が多く、上州登せ糸のように京都へ送られてから仕上加工がほどこされるものではなく、できあがった反物としてそのまま江戸へ出荷することができたのである。拝島はこの織物の集荷機構の一つとして、機能していったのである。
 第5表は、天明初(一七八〇年代初頭)年における、多摩地方の各在郷町への織物の集荷状況を示したものである。拝島の市では、年間五、〇〇〇疋の絹縞と一、〇〇〇疋の太織縞が取引きされていた。けれども拝島市は、この時期を最後に廃されてしまった。その理由は、絹織物取引きの機能を八王子市へ吸収されてしまったため、と考えるのが妥当であろう。

第5表 天明初期の多摩地方の絹織物

 織物取引きの市が立たなくなったけれども、拝島における織物業や織物取引きが衰退したわけではなかった。大田南畝(蜀山人(なんぽ)(しょくさんじん))は、近世後期の狂歌師・戯作者として有名であるが、幕府の吏僚としても多摩川治水などで活躍した人物である。彼は玉川上水の巡視などでしばしば拝島にも来村し、その著書『調布日記』・『向岡閑話』に拝島の様子を記している。そのなかに「拝島の宿を出て、水車のある農家のかたわらより畑に出れば桑の木多し」と、文化期(一九世紀初頭)の風景を述べている(註八)。拝島村における絹織物業の盛んな様子がうかがえるのである。
 この時期には、在方の商人で、江戸の三井店と織物関係の取引きをしていた者が、多摩川沿いと草花・秋留両丘陵に広く分布していた。文化一四(一八一七)年には、そのうちの三人が拝島村在住の者で、これは青梅についで多い人数であった。これらの商人は、織物を集荷してこれを三井に送り込む在方の仲買商人か問屋であったと推定される。この地域の農間稼として織られたものは、このような在方仲買人をとおして江戸市場へ運ばれていったのであった。
 また天保八(一八三七)年に、箱根ケ崎村の百姓弥次郎は拝島村へ出て店借(たながり)し、絹・紬織屋を営んでいた。さらに天保一〇年、拝島村の野島庄兵衛は八王子縞市において諸国呉服物類の江戸直売仲間が結成されたとき、仲間の一人に参加していた。
 以上のことから、拝島市が廃されたのちも、青梅縞・黒八丈などの織物生産は発展し、これを背景としてその集荷商人が活動していたことがわかる。在郷町本来の機能である諸消費物資の供給は、村の人々が農間渡世として常設店舗を開いて、おこなっていたのであろう(註九)。