D 紺屋稼ぎ

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 紺屋(こんや)とは、元来藍染業者のことであるが、近世では染物屋の総称としてつかわれた用語である。藍は紅花とともに、近世における代表的な染料として広く使用されていた。関東地方では、利根川・多摩川沿いの地帯で武州藍が栽培・製造され、染物業の発展に寄与していた。
 紺屋は藍瓶役という課役を負担しており、それは毎年江戸京橋の北紺屋町に住む紺屋頭土屋五郎右衛門により徴収されていた。藍瓶役とは、藍瓶の数により役銭が徴収されたことからつけられた呼び名であり、紺屋が使用する多くの瓶のうち、水瓶・灰汁瓶・色染草瓶を除いた残りの藍瓶のみに課けられた課役であった。
 ところで、多摩地方では織物生産の増大により、染物業を営む紺屋も数多くみられるようになってきた。この紺屋稼ぎの盛行に対して、紺屋頭土屋五郎右衛門は新たな課役をかけようとした。紺屋の所持するすべての瓶に役銭を賦課しようというのである。紺屋頭土屋によるこの試みは、安永年間(一七七二~八〇)には紺屋たちの反対によって失敗したが、再び文政三(一八二〇)年にいたって企てられた。
 文政五年の冬、多摩郡の紺屋四九人は連印して幕府の勘定奉行所へ、課役増加の反対を訴え出た(史料編七八)。その理由として、紺屋稼ぎは元来利分の薄いものであり、そのうえ近年は藍玉元相場が上昇し銭相場が下落しているので、なかなか算盤が合わない。この状況で紺屋頭の指示どおりの役銭を納めたのでは稼ぎにならなくなってしまう、と述べている。
 第6表は、多摩郡の紺屋四九人を表わしたものである。紺屋の多くは、八王子を中心とする地域と、多摩川・秋川沿いの地域に存在していたといえよう。昭島市域の村々では、拝島村の惣吉・勇右衛門、中神村の平七の三人が名を連ねている。拝島を中心とする地域の織物生産の盛況をうかがうことができよう。

第6表 文政5年多摩郡紺屋一覧