民家遣水のために、元文五(一七四〇-筆者注)年願ひ奉りて、村の北より多磨川上水を引入れ、西の方より宿なかの小堀を東流して、末は田方の用をなして、後は又多磨川に入る、因て年毎に冥加金若干官に上ると云
と記されている、玉川上水の分水であった。前述した大田南畝の記述にある「水車のある農家」とは、この分水に設置された水車のことである。
武蔵野地方の水車は、多く玉川上水の分水に設けられたもので、最古の設置は宝暦一一(一七六一)年で、安永以降に急速に数をふやし、天明八(一七八八)年には三四ヶ所を数えている。水車の設置には、用水を利用する人々と尾州鷹場役人との許可を必要としたため、実際に水車を設置できた者は、ほぼ村役人層に限られていた。これらの水車は、当初は自家用の製粉に使われたようである。やがて、この地方からの江戸向け雑穀類の販売が、蕎麦粉・小麦粉として出されるようになると、販売を目的とした製粉や賃搗が行なわれるようになった。水車経営主にも化政期頃から変化がみられ、在方商人が水車稼に進出してくるようになった(註一〇)。
さて、拝島村の水車は、第7表に示した三ケ所であった。武蔵野の水車のなかでは、比較的早期に設置されたといえよう。これは、一八世紀後半における拝島村の経済的発展の様相をうかがう、一つの事象として理解できる。ところで、第7表の清水松兵衛所持の水車は、設置後間もない文化八(一八一一)年から三年間、賃貸しに出されている。この借用料は年に六両であった(史料編六八)。
第7表 拝島村水車一覧
拝島村の水車は、近世には三ケ所であったが、近代に入るとその数を急増させ、明治一四(一八八一)年には全部で一三ケ所に設置されていた。拝島名物の一つであったという(『拝島村誌』)。
昭島市域にかつて存在した水車の総数は、いまだ不明であり、今後の調査を待たなければならない。水車の設置は、用水の流勢・水量を従来と変えることになったため、周辺ことに下流の村々に及ぼす影響は大きかった。このため、先述したように、無制限に設置できたわけではなかった。また、設置後に、下流の村々と争論がおこったこともしばしばであり、なかには一度設置された水車を取りはずさなければならなかった場合もあった(史料編七三)。