F 嘉永の拝島市(いち)再興

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 拝島市は、さきに引用した『新編武蔵風土記稿』によれば、「昔年この所に毎月三九の日を定て立けるが、天明の比より廃せりと云」とある。つまり天明期以前は、毎月三・九の日に市が立てられ、天明初年には年間六、〇〇〇疋(一疋=二反)もの絹織物が取引きされていたのであった。
 この拝島市が廃されてから六〇年余りのちの嘉永三(一八五〇)年に、市の復活が拝島村の人々のあいだで決議された。同年一二月の「市立仕法議定連印帳」(史料編七九)により、この時の様子を紹介しておきたい。
 まず、市立仕法の内容をみると、左の一一ヶ条よりなっている。
   (一) 暫定の議定であり、時宜により改訂されるものであること。
   (二) 公儀法度・改革趣旨の遵守。
   (三) 市立の場所は、村内高札場から左右へひろげること。
   (四) 市日は年四回。
   (五) 火の元用心。
   (六) 商人見世に必要な簡易建築資材の融通・確保。
   (七) 若者の行動を慎ませること。
   (八) 世話役は巡回し、諸事に注意すること。
   (九) 市が軌道にのるまでは、諸入用自弁のこと。
   (十) 商人荷物の運搬は、安価にすること。
   (十一) 旗籠宿は安価にすること。
   (十二) 銭相場・米穀相場の調整。
 つぎに、市の内容・構成について、いくつかの点に限ってみていきたい。まず、市立(いちだて)の日は、各季節ごとに一回一日づつで、それは二月二六日・五月一日・七月一一日・一二月二三日と決められた。場所は、拝島村の上・中・下の三宿にとって平等の利益になるように設定されることになった。この市の再興が、拝島村における領主の違いをこえて、一つにまとまった村全体としての振興を目的としたものであったことが推察できよう。
 さて、市の運営は、役元と世話役とで行なわれることになっていた。おそらく、役元は定められた場所に詰めていて諸事万端を取仕切る者で、世話役はその指示を請けて実務に従う者であろうと思われる。役元の人数は不明であるが、議定連印帳における各領主ごとの村役人・世話役の連印のうち、村役人で「当役」と肩書のついている六人であると考えられる。一方、世話役は全部で一九人であった。役元の人選が村政機構に拠っていることからも、この市立が村を挙げての試みであったことが、容易に想像できるのである。
 この市立仕法の(六)(七)(十)(十二)などに示されているように、周辺地域からの商人の出店を相当に期待していた。これは、市に参集する商人の多寡が市立の明暗を分けるものであったためである。この議定をとおして、私たちは拝島村の人々がいかに市の再興に期待をし、努力したかを読みとることができる。この市立の試みが、いかに実現していったのであろうか。管見する史料の範囲では、まったく不明である。