昭島市域の人々は、拝島もしくは築地の渡しを通って八王子方面へ赴いたのであろう。そこで、おそらく交通量の多かったと考えられる拝島の渡しについて、簡単にみていこう。
拝島の渡しは、前述の千人同心衆の往還路であるのみならず、幕府公定の無賃による伝馬である「御朱印御証文人馬御継立」の交通路にもあたっていた。この幕府の公用通行の労役負担の代償として、拝島村は多摩川の渡しの運営権を与えられていたのである。村はこの運営権に基づいて、渡舟と橋掛とを運用し、そこから渡し賃を徴収して、「御継立人馬賃」に充てていた。渡し舟による渡河が原則であったが、代りに、流れに何艘かの舟を並べつなぎ、その上に板を渡した浮き橋、いわゆる舟橋によることもあった。
昭和18年拝島の渡風景(秋山信雄氏所蔵)
拝島村は宿駅の機能の一つとして、渡し場の運営・維持にあたってきた。しかしすくなくとも幕末段階には、渡し場の運営は、村が直接に実施したわけではなく、請負制が採られていた。文久元年八月に、村と「引請人」紋二郎とのあいだで取り交された「渡船場掟書之事」(史料編六三)により、この様子をみておこう。
(一)引請人の選定
入札により決定された。落札金は四年間にわたって、年に二度(七月晦日・一一月一五日)づつ、都合八回に分けて村方へ納入する。
(二)保証金(「置金」)の納入
引請人は、落札時に金五両、同年一一月一五日に金二五両、都合三〇両を「置金」として村方へ納入する。この置金は五年目の一二月二五日に請負人に返済される。
これが、運営権をもっている村方と実際の引請人との基本的な契約内容である。したがって、引請人は相当程度の資力を必要とした。それだけに、渡し賃の収入が大きかったことが考えられ、商業取引をはじめとして人々の往来がさかんであった様子をうかがうことができる。
なお、村方と引請人とのあいだで決められた、渡船場運用の具体的な規則の主なものは左のような内容であった。
(一)渡し賃の規定
平水時二四文。大水の時は増銭をする。
(二)渡し賃の除外規定
イ当日、すでに一度支払った者。
ロ他村から拝島村の親類へ所用で来る者。
ハ佐入村の者。(川留め、川明きのおり、八王子宿問屋場、千人町への連絡を担当しているため)
ニその他いくつかの村民。
ホ村方附送り荷物。
ヘ御用人・出家・社人・難渋人。
(三)渡し舟の停止規定
いくつかの地点で湧水などがあった場合。この場合は橋をかけ渡すこと。その費用は、金額により引請人と村方とで分担する。
(四)船子共の悪態などの禁止規定
右の件につき、役宅へ届出された場合は過怠銭三貫文を、置金より徴収する。
(五)船の造立・維持規定
船は村方にて造立する。破損・修復は請負人の負担。船を流失した場合は、請負人が弁済する。
拝島の渡し場は、右に記したような制度のもとで、運用されたのであった。
ところで、文政元(一八一八)年一二月中旬のことであった。冬場のうち、拝島村で掛けておいた舟橋よりも約三〇〇メートル下流で、新規の橋普請が始まった。利益をうばわれることを恐れた拝島村では早速、普請主の田中村に対して、多摩川往還橋と紛わしいので中止するように申し入れた。田中村側では、橋普請をしている両岸ともに田中村の持添えである作目村地内なので、差障りの筋はないとして普請を続行した。多摩川の架橋は、従来から拝島村のみに認められた権益であったため、これをそのまま見すごすことはできなかった。拝島村の各領主知行地ごとの三人の名主は、御奉行所へ訴え出ることに決めた。翌文政二年正月には、村内小前百姓たちの訴訟支持の連判状をとり、二月に出訴した。この訴訟は受理されて、三月一一日に幕府の評定所で両村は対決することになった(史料編六六・六七)。
田中村の新規架橋の企ては、活発化していた多摩川の渡河に注目したものと考えられる。この訴訟の背景には、化政期に至って多摩川の渡しが、人々の往来や諸物資の頻繁な輸送で賑いをみせていた、という事象が存在したのであろう。この訴訟の裁決は、史料を見ることができず不明である。
なお、市域内における多摩川の渡しは、もう一つ「築地の渡し」も存在した。この渡しは、所沢-村山-八王子を結ぶ、いわゆる大山道の渡しであり、やはり交通量が多かった。