B 筏通行と堰

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 多摩川は流路が定まらず、洪水の被害も頻繁であった。第二章第二節でみたように、護岸のための普請は、昭島市域の村にとって大きな負担となっていた。このため、人々は多摩川の流れには殊のほか神経をつかい、低地の水田を流れから護る堤は、可能な限りの努力により保持されていた。ところが、筏乗りが多摩川に対して第一に望むことは、豊富な流量と筏運行に無理のない水路であった。多摩川に対して、流域の住民と筏乗りとは右に述べたような異った期待をもっていた。
 現実に多摩川の河川敷は、流域住民の意向のもとに管理されており、流域の田畑の保護を最優先して各種の水防普請が実施されていた。この立場にたって、所々に堰が築かれていたため、筏の通行には支障をきたすことが多かった。事実、筏が衝突して堰を破損したことも数多く、流域住民にとって筏は迷惑な存在であった。堰普譜を理由に、筏の川下げが停止され、なかなか解除されないこともあった(史料編五七)。
 ここでは、文政四(一八二一)年におこった福島村と多摩川・秋川の上流六五ヶ村筏師との出入訴訟を例にとってみよう。この出入は同年二月に筏師側から幕府評定所へ出訴され、三月より吟味中のところ、荏原郡羽田猟師町と多摩郡押立村の両名主が仲に立って、五月に示談成立して内済となり、訴訟を取り下げたものであった。この訴訟の争点は次の三つであった(史料編五四)。
 (一) 筏師よりの申したて
  福島村地先の川原において、同村の人足が、川瀬を「筏通行相成候様取斗候ニ付、筏乗のものより少々宛相対を以酒代」を無断徴収していたという不正行為。
 (二) 福島村よりの申し立て
  一六枚の筏が、通行を認められていない瀬に入り込み、堤堰を破損させたこと。
 (三) 双方の口論・けんか
  二月四日、普請人足と筏師とが口論のうえ、双方に怪我人がでたこと。
 この三つの争点の背後には、多摩川の流路・堤堰普請・筏通行路の問題があった。つまりこの時期には、多摩川は福島村の地先で流れが二つに分れており、本瀬は「御普請所ニ付縄張有之通行不相成」であった。このため、筏は向瀬を通らなければならなかったが「水浅」であったので、福島村から人足がでて改凌していた。ここに村の人々と筏乗りとが接触する機会があり、前出した三つの争点が発生したのである。なお、三つの争点はつぎのような解決をみている。
 (一) 「酒代」は、人足たちが村役人の知らないうちに勝手に受け取っていたものであり、全額回収して筏乗りへ返させる。村役人は今後このようなことがないように、十分注意する。
 (二) 「拾六枚之筏」は、多摩川を乗下げて日暮になったので一泊するため岸につないでおいたところ、水勢が強く自然に流れ出てしまったものである。したがって、福島村より申したてたように、筏乗りが堰に乗り当てたものではない。争いの件は、もはや堰の破損個所の修復もおわったことでもあり、仲介人の預りとする。
 (三) 「双方申争行違憤」の件は、両人ともに怪我はなおり農業に差し隙りもないので、仲介人の預りとする。
 解決の結果は、全般的に福島村に不利であった。この理由は、筏流しがとだえたり輸送経費が増加することを恐れた、筏流し関係の諸村の利害が、福島村一村の利害に優先したためであろう。訴訟方六五ヶ村のなかに拝島村が連っているのも、また仲介人として羽田猟師町名主が加わっているのもこのためである。

現在の福島町の多摩川