第8表 慶応2年上荷運賃表
昭島市域の人々のうちで、「筏上積仲間」に名を連ねた者は何人かいた。文化一二(一八一五)年正月の「上組筏上積仲間儀定」(史料編五二)によると、この仲間には七ケ村一四人が参加しているが、そのうちの五人は昭島の村びとであった。それは拝島村伝七・同村松兵衛・田中村七右衛門・作目村幸兵衛・大神村留右衛門であり、取扱い品目は槇木であった。おそらく、周辺の地域から集められた薪を筏の上荷として、江戸方面へ出荷した者たちであろう。拝島村を中心とした多摩川流域の村々は、水運により移送される物資の集積地としての機能をもっていたと考えられよう。
川下げの道中は筏乗りにとって、なにが起るか解らなかった。一例をあげてみよう。拝島村の筏乗り定吉は、荷主の宇津木村半次郎から筏と上荷を、八幡塚村筏屋茂兵衛に届けるようにと指示された。定吉は松丸太九〇本を四枚の筏に仕立て、その上に四三五束の篠竹を積んで、拝島村の与七と共に出発した。荷主半次郎は定吉に送状を与え、「自分が筏屋茂兵衛のもとへ到着する前であっても、値段がよかったら売り渡すよう」に申し含めた。ところが定吉はこのことを、道中のどこででも売り払ってもよい、と聞き違えてしまった。そこで、途中で大神村の清三郎に篠竹一二束を、金一分と銭三〇〇文で売り渡し、さらに道中をつづけて柴崎村で泊ることになった。このとき、風雨激しく、多摩川は大水になった。常吉は筏をきちんとつなぎ留めようと出かけて行ったが、酒を飲んでいたこともあって、適当に処理しておいた。そのため、筏が流れ始めてしまった。驚いた定吉は、川へ飛び込んで引き戻そうとしたが、大水のためうまくいかず、筏は流されて見失ってしまった。両三日ののち、水量が減ったので皆で川下へ探しにいったところ、柴崎村の洲崎と荒井村の河原で、岸に打ち寄せられた松丸太三七本と篠竹一七〇束とを見つけた。他の松丸太と篠竹は流失して、結局見つからなかった。荷主半次郎は、定吉が無断で大神村清三郎に篠竹を売っていたこともあり、流失してしまった分も定吉が売り払ったと疑って、役所へ訴え出た。詮議のすえ、定吉の疑いは消えたが、そもそもこの一件は定吉の不注意から生じたことなので、訴訟入用の四両と、先払いしてあった筏乗賃金二両、あわせて六両を定吉は筏主半次郎に支払うことになった。なお、見つかった筏は半次郎の方で八幡塚村まで乗り下げることに決った(史料編五八)。
数多い筏乗りのなかには、荷主の荷物を途中で自分の荷物と偽って、勝手に売り払ってしまう者もいた(史料編六〇)。ところが、荷物の槇木に打ってあった荷主の極印により、上荷横領が荷主仲間の惣代に見つかり、筏乗りは稼業を没収された場合もあった(史料編五六)。
上荷主仲間は、筏師仲間と同じように組合を結成して、利益の独占をはかった。けれども、時代が下ってくるといわゆる抜荷(ぬけに)といわれる、統制に入らない物資の流通が盛んになってきた。ここでは、昭島市域とは直接の関連はないが、天保三(一八三二)年の八幡塚村の事例を紹介しておこう(史料編五九)。同年一一月五日、八幡塚村の伝蔵から江戸芝田町土屋庄助へ、樫木三三四束と炭三〇俵が筏の上荷として発送された。これをみていた炭薪問屋仲間より、在方から江戸市中の素人へ直接荷物を送るのは問屋仲間の営業に対する妨害であるとして、訴えられた。この訴訟に対して伝蔵方の返答はつぎのとおりであった。
荷物の樫木と炭とは、八王子在の殿谷戸新田佐左衛門のもので、同人は以前から水野越前守の屋敷へ薪炭を納めている。芝田町の土屋庄助宛としたのは、庄助が水野越前守屋敷へ出入しているためである。薪炭の送状に水野屋敷宛としなかったのは、伝蔵方の落度であり、他意はない。今後は、送状に素人の名前を書き抜荷に間違えられるようなことは一切しない。
この訴訟は、結局伝蔵方の書類不備ということで解決し、抜荷の摘発とはならなかった。この争論をとおして推察できることは、炭薪問屋仲間が江戸へ流入してくる統制外商品に対して、その対策にかなり苦慮していたことである。この統制外商品の江戸流入経路の一つとして、筏の上荷を指摘することができる。
註補
一 伊藤好一「江戸周辺農村における肥料値下げ運動」(『関東近世史研究』第七号)
二 昭島市郷土研究会『郷土研究』第一四集
三 深谷克己「百姓一揆」(岩波講座『日本歴史』11)
四 深谷克己前掲論文、北島正元『日本史概説Ⅱ』
五 『東京百年史』一、『大和町史』
六 『八王子市史』、高橋源一郎『武蔵野歴史地理』
七 昭島市郷土研究会『拝島部落の研究』
八 昭島市郷土研究会『拝島部落の研究』
九 伊藤好一『江戸地廻り経済の展開』
一〇 伊藤好一『江戸地廻り経済の展開』
一一 この部分の記述は、『定本市史青梅』、『五日市町史』によった。
一二 『定本市史青梅』