この期間には、経済的に大きな変動があった。それは、化政期に江戸地廻り経済圏が確立したことと、天保飢饉である。また政治史のうえでも、関東取締り出役や組合村機構形成などを主要とした幕府の化政改革と、水野忠邦が主導した天保改革という重要な二つの問題が存在した。
これらからも判明するように、化政期から安政までを単一に理解するのではなく、天保飢饉を前後として区分して理解する必要があるであろう。その相違は、本節と次節によっておいおい明らかにしていきたい。
しかしながら、この時期を通貫する特徴がないわけではない。それはまず第一に、村落における階層の分化が急速にすすんでいくことである。すなわち、村民が少数の豪農と、多数の貧農・半プロレタリアにわかれ、その差がますます増大していくことである。
この期の豪農経営については、本章三節において、中神村の中野家と上川原村の指田家を中心としてみていくことにしたい。紙数と史料残存状況による制約によってとりあげることはできなかったが、大神村の中村家、宮沢村の田村家など、本市域に存在した豪農達も、この期に重大な経営上の発展をとげたと考えられる。この豪農達は、村の状況やとりあつかう商品の性格、発展してきた時期などによって、性格を異にしている。しかし、それらは、(一)村役人であること、(二)地主経営を営み、小作人を支配していること、(三)なんらかの形で商業活動を展開していること、以上の三点をあわせておこなっている点で共通する。さらに、自己の村や周辺農村の農民に金銭を貸付けることによって、支配していることをみのがすことはできないであろう。この活動を「高利貸」活動とよぶ。この場合、その金利が当時の社会風潮より高いか低いかなどを問題としているわけではなく、経済的・歴史的範ちゅうとして「高利貸」と呼ぶのだということを明らかにしておきたい。
大神町中村保夫家屋敷
これらの豪農層の対極に、貧農・半プロとよばれる人々が広範に存在した。彼らは貨幣経済の発展、飢饉や旗本の収奪強化などによって窮乏し、土地を喪失していった。彼らは自己の保有地を耕作することによっては、経営を維持しえなくなっていた。彼らは他人の土地を小作したり、日傭・雑業的仕事によってようやく生活を維持しているにすぎなかった。彼らは豪農層にやとわれたり、高利貸支配を受けたりするなかで、豪農層と対立を深めていった。
この貧農・半プロの代表的事例として、上川原村の運平・みな夫婦をみてみよう。この運平・みな夫婦は弘化・嘉永期に、村役に対し訴訟をおこなっている。この訴訟については、史料編一一三他に史料をのせており、また次項において分析するので参照されたい。ここでは、この訴訟に提出された史料から、彼らの生活のさまをみておくことにしたい。
運平は農民喜兵衛の弟である。家を相続しえない彼は、所々に出稼ぎし、日雇稼ぎをしていた。そこで妻であるみなと知り合い結婚した。この点を史料はつぎのようにのべている。
運平義者若年之砌より生付柔和之者ニ者候得共、兎角農業ヲ嫌ひ、先々遊歩行候ものニ而当八九ヶ年前出先ニおいて女房ミな与夫婦罷成、倶々日雇稼いたし居候
この史料がのべるように、かなり遊び好きの人間だったかもしれない。この彼にも幸運はめぐってきた。上川原村に百姓伝右衛門の潰株があった。兄喜兵衛らの尽力によって、天保一四(一八四三)年この株をついだのである。しかしながら、この伝右衛門遺領では、農業活動だけで生活をしていくことはできない。彼は農業をみかぎり、「出稼」をすることにした。史料は、「聊なからも地面乍二罷在一、拝島村江出稼いたし」とのべている。しかも生活費の一部は、「近頃村々の碁打渡世ニいたし」というようなものであったのである。「碁打渡世」とは、賭け勝負のことであろう。
彼はわずかでありながらも耕地を持つ農民である。にもかかわらず、農業経営に主眼をおかず、日傭稼業で生活を立てていた。貨幣経済の発展は、かかる生活を可能にしたし、また逆にこの境遇へおいこんだともいえる。
運平とみなの夫婦は、この訴訟の過程で、村民から排斥され、孤立無援の闘いを展開しなければならなかった。にもかかわらずこの夫婦は、村役人を相手に執拗な闘いをいどんでいった。とくにみなは、夫運平の死後、幕府評定所に駆込み訴訟をするなど、めざましい働きをした。このエネルギーはどこから来たのであろうか。それは、彼らが拝島や江戸に出稼ぎし、日傭取的稼業をつづけるなかで得た「生活の知恵」であろう。それは相手側からは、「金子可貪取心底」としてうつったのであろう。すなわち、利にさとい性格である。
しかし、運平・みなを「金子可二貪取一心底」と評した人々も、商業活動に積極的に参加するなかで、利にさとい人間にかわっていたはずである。ここに、農民達の間で利をめぐる確執があり、なにかの拍子に争いにかわっていく。これが幕藩制解体期の村方騒動の要因である。とくに貧しい農民達は、自分達の生活を維持させてくれる村政を望み、村役人層と対立していくのである。
村方騒動は、非常に複雑な対立をかたちづくる。ある事件では対立関係にあったものが、つぎの事件では同盟関係に入ることなど多々あった。それは事件の要因や経済的立場によって規定されると同時に、村落内部の問題ゆえに家系や組が重大な要素となってくるからである。だが、個々の事件は複雑であっても、その対立が村役人・豪農層と貧農の間に両極があることは、次第に明確となってきた。そして、この両階層の対立は、こえがたい溝をつくっていた。それはきっかけさえあれば、村方騒動にとどまらず、打こわしという極端な対立にまで発展しかねないものとなっていたのである。この節があつかう時期には、昭島市域では打こわしにまで致らなかった。しかしついに慶応二(一八六六)年五月に武州世直し一揆の一環として、昭島市域に打こわしが発生するのである。
さらに博徒や盗賊の横行、若者組の台頭、風俗のみだれなど、村落秩序を破壊する要因は山積していた。人々は、この中で必死に生き、経営の向上をめざして活動をしていた。その姿を次項からおってみたいと思う。