A 上川原村宇助一件

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 安永七(一七七八)年一一月晦日の夜、上川原村の村内往来道筋の二ヶ所に、宜しからざる内容の落書(らくしょ)が張られるという事件があった。落書とは、時事または当時の人物について、風刺や批判の意をあらわした匿名(とくめい)の文書である。上川原村で張られた落書の正確な内容は不明であるが、ともかく村では大問題となった。張本人を調べるため、村中の一五歳以上の男子全員一人一人について調査がおこなわれた。その禍中の翌一二月朔日朝、同村百姓弥七の忰友次郎が、落書は自分の兄宇助の仕業であると吹聴して歩いた。けれども友次郎は子供であったため、その証言は顧られなかった。
 その後、村中寄合の席で、弥七に対して落書の詮議がなされた。この追求に対して、弥七は粗暴の言動を示したうえさらに中傷を加えたので、村役人より代官所へ、弥七父子の村役人への不服従が訴えだされた。訴訟方村役人・相手方弥七父子の双方が、訴訟のため江戸へ出府したおり、近郷拝島村の名主又左衛門・伝左衛門と遇然居合わせ、二人が仲に入り双方を和談させた。結局宇助が上川原村名主宛の「私義茂是迄行不届義茂可之候」という詑状を書いて、この件は一まず収った。そののち、天明二(一七八二)年一〇月にいたり、この件について若干の差障りが再び生じたが、拝島村又左衛門他、宮沢村・大神村の五人が仲に入って、和解させた(史料編一〇二・一〇三)。
 右の一件から一八年経過した寛政八(一七九六)年、すでに宇助が家督を相続していたとき、宇助と村役人との激しい対立が生れた。当時宇助の農業経営規模は、村内所持高で四石八斗一升五合となっており、名主七郎右衛門の三石七斗三升四合を越えて、村内では筆頭石高を所持していた。この年の春、宇助と旦那寺である宮沢村阿弥陀寺・名主七郎右衛門とのあいだで争論がおこった。
 ことのおこりは、宇助と阿弥陀寺とのあいだでの「座興咄」による行き違いであった。阿弥陀寺は、毎年三月に代官所へ提出する宗門人別帳の宇助分への捺印を拒否し争論となった。他方、七郎右衛門とは、先年宇助が村の年寄役を些細なことで退役して以来、両者のあいだで不仲が続いていた。このため、七郎右衛門は宇助に対し、「宗印難渋」の件が未済のうちは、屋根替普請を許可しないと通告した。そこで七郎右衛門と宇助とのあいだでも争論となった。
 この二件の争論は、宇助により領主へ訴えられた。領主のもとで吟味になる以前の段階で、双方のあいだに、福生村名主重兵衛・丹三郎村名主丹次右衛門が仲介にはいり、江戸で和解した。宇助と阿弥陀寺との争論は、元来が些細ないさかいよりおこったものであり、熟談のすえ解決した。もう一つの宇助と七郎右衛門との争論は、阿弥陀寺の「宗印之儀延日之趣」に付随したものであった。それで、宇助と阿弥陀寺との争論が解決し、宗門人別改帳への捺印がおこなわれれば、普請差留の根拠は消滅する。七郎右衛門は屋根替普請の許可を与え、さらに宇助が年寄役に復帰することに同意し、村内小前層に対して宇助復帰の説得にあたることになった。宇助も村役人たちと「随和」していくことを誓約した(史料編一〇四)。
 これで宇助をめぐる争論は、すべて一件落着したようにみえた。宇助は帰村後、「年寄分」として年寄役待遇をうけたが、年寄役そのものにはなれず、それも同年一一月には退役させられた。これに対して宇助は、再び訴訟を願い出た。
 まず宇助の言い分(史料編一〇五)を聞いてみよう。この年の春の「宗印難渋屋根替普請差障の出入」の済口証文で、私は年寄役に復帰することが認められた。そもそも私の家は年寄役を勤める資格をもった家柄である。にもかかわらず名主七郎右衛門は、言を左右にして私の年寄役就任を差し延した。あまつさえ近頃になって、七郎右衛門は小前層を扇動して、私を年寄役にさせない旨を誓約した一札をとり、この一札を根拠に私の年寄役就任を拒んだ。私としては、小前層の支持がないならば年寄役を望まないが、「名主巧を以」小前層の連印をとったことは承服できない。このままでは外聞も悪く、諸々の付き合いもできない。この状態は、春に取り極めた済口証文にも違反する。なにとぞ名主七郎右衛門を代官所へ呼び出され、さきの済口証文のとおり、私が年寄役をたとえ一日だけでも勤められるように仰せつけてほしい、というものであった。
 この宇助による出訴は代官所に受理されて、一二月一八日に両者は対決することになった。そこで訴えられた七郎右衛門は、代官所からの下問に対し、吟味の事前に返答書を差し出した。これによって、七郎右衛門の言い分を聞いてみよう。
 まず宇助の申し立てを全面的に否定している。ことに宇助が年寄役を勤める資格をもった家柄という点については、次のように述べている。宇助の親弥七を一〇年余にわたって年寄役に任命したのは、その当時、元来年寄役を勤めるはずの各家にいずれも支障があり、そのうえ「弥七儀少々才覚茂有之弥更有徳者」であったからである。つまり、あくまでも臨時の措置であり、かつ弥七個人の人格に拠るところが大きいと主張している。ところが忰宇助の方は「生得権威強ク肝曲邪智深キもの」で、しばしば村内で悶着をおこし、このため弥七は年寄役を辞退せざるをえなくなったほどの者である。春の済口証文で、宇助の年寄役就任を認めたのは、ただただ争論を早く落着させたかったためである。宇助の年寄役就任を小前一同に了承を求めたところ、小前の賛成が得られなかった。そのため、宇助を年寄分にしておいた。こののち、宇助は「弥以威勢相募リ百姓共挨拶等も不宜」、すなわち以前にもまして高慢な態度をとるようになった。小前たちの憤りは強く、宇助解任を求める決議書を私のところへ提出してきた。小前に信任されない者を村役人にすることはできないので、仕方なく宇助退任を申し渡したのである。ところが、宇助は私(七郎右衛門)が小前を煽動したとして、訴え出たのである。宇助が年寄役にあったのでは、村内は治まらない。この事情を納得されて、宇助の訴訟を却下してほしい。名主七郎右衛門は、右のように申し述べている。
 この七郎右衛門の返答書に加えて、同じく寛政八年一二月には、上川原村年寄勘次郎・隣村宮沢村名主新蔵からも、ほぼ同内容の添簡が代官所へ提出された(史料編一〇七・一〇八)。
 この一件は、翌寛政九年二月になって、柴崎村(現立川市)の名主次郎兵衛が両者のあいだにたって仲介し内済をみた(史料編一〇九)。結局、去寛政八年春以来の訴訟費用がかさんだので訴訟継続が困難になり、双方が妥協したのであった。双方の争点としての、宇助の主張である年寄役の家柄・宗印難渋他一件済口証文の履行、七郎右衛門の主張である宇助親弥七の年寄役は臨時の措置・小前層の宇助に対する不信任、のいずれもが結着をみずにおわっている。ただ宇助の人柄については、七郎右衛門の述べるような奸曲邪知深い者ではなく、「名差候程之儀ニ者無之」と記されている。宇助の年寄役復帰については、「来未年(寛政一一年…筆者注)ニ而者外百姓同様相勤候」とほぼ宇助の主張がとおった結果になった。
 この宇助をめぐる一連の争論は、次のように解釈できるであろう。村政は、その村で従来からの由緒・格式をもった一部の農民にほぼ独占されたものであった。近世前半における小農自立により、近世の村が小農を基軸になりたつことになったといっても、依然として農民間には家格・身分が厳然と存在していた。この家格・身分と経済力とが照応していた時期には、村役人層を中心とした村落秩序がうまく機能していた。
 ところが、新たに村政上の発言力をつけた者があらわれ、村内の勢力関係が変化してくるようになると、旧来の村落秩序は維持できなくなってきた。新興勢力は、村政発言権をもとめて画策するようになった。たとえ宇助が「元来軽百姓之筋方」(史料編一〇八)であったとしても、村内所持高は七郎右衛門を越えていた。この経済的基盤に基づく宇助の行動が、村役人層には「生得権威強ク……村内治リ方不宜自然ト百姓中も不睦候」(史料編一〇六)、つまり我儘で村内の秩序を破壊するものと認識されたのであった。
 すでに第二章第一節で、享保期新田開発の結果として小前層の発言力が増大し、一八世紀半ばには小前層の信任が名主就任の条件となってきたことをみてきた。一八世紀末にいたると、小前層のなかから村役人層へと、村内階層の上昇を求める者がでるにいたったことを、宇助の行動をとおしてみることができるのである。