B 若者の乱暴

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 村びとの子弟は、年令が一五~七歳ぐらいになると、若者組に入った。若者組とは、若衆組・若者仲間ともよばれた年令集団で、以後成人に達するまで組の一員として行動することが多かった。若者組に入れば村仕事のうえで一人前とみられたし、婚姻や祭礼への関与は若者組の特権であり、また村芝居や相撲などの娯楽も若者組の管理下にあった。さらに村内警備・消防・各種普請・田畑農作業などの役割をになっていた。若者組は村の意志を実行する機関であった(註一)。仲間は時を定めて集会を開き、仲間内の秩序や道徳をきびしく規定し、制裁を行なうところもあった。
 村の諸作業・諸行事の実行機関として、若者組は大きな力をもっていた。若者の行動のなかには、ことに諸行事などの実施に際しては、村落秩序に抵触することもしばしばあった。たとえば、祭礼時の村芝居の仕掛けが華美にながれたり、定められた休日以外に臨時の休日を村役人に要求したりしたことである。けれども、若者の行動は、村の秩序を破壊しない範囲内では、ある程度寛大に扱われるのが普通であった。
 近世の後半に入り、従来の村落秩序が動揺をきたすようになると、若者の行動はとかく秩序の範囲を逸脱するようになり、ときには物議をかもしだすこともあった。これにともなって、法による若者の行動規制も強化されていった。ここでは拝島村における若者の行動の一端をみておこう。
 文化一二(一八一五)年九月の、拝島村惣鎮守山王大権現の祭礼の夜であった。村のうちで岡部五郎兵衛知行所分の若者が申し合わせて、藤蔵宅で日満子踊を催していた。そこへ何処の者とも知れない者たちが大勢で押し掛けてきて、藤蔵宅と隣家演蔵宅とを打ちこわし、そこにいた太兵衛に怪我をさせて逃げ去るという事件がおこった。太兵衛の証言では同村太田運八郎知行所分の者たちであるとされた。ちょうどそのとき、この事件とは無関係の太田運八郎知行所分の農民孫右衛門が、祭見物ののち居酒屋へ立ち寄り、家へ帰ろうとしているのがみつかった。打ちこわしにあった藤蔵他数人は、仕返しにこの孫右衛門を袋叩きにして怪我をさせたうえ、縄をかけて藤蔵宅へ監禁してしまった。この一連の事件は、同じ村のなかで双方の知行所農民からそれぞれの領主への訴訟となってしまった。そこで、同じく拝島村天領分の年寄であった孫右衛門と甚五右衛門の両人が仲に入り、双方を和解させることにした。交渉・説得の結果、同月二七日になって、藤蔵・演蔵宅の修復費用および怪我をした太兵衛・孫右衛門の療治代金一五両を、仲介人が負担することで結着がついた(史料編三八)。

現在の山王権現(日吉神社)祭礼風景

 つぎに田中村の一事例をみていこう。文政一〇(一八二七)年八月のことであった。又左衛門の所持品が盗まれて、藪のなかに捨てられていた。この下手人探索は「実躰ニ致候若者共迄倶々疑請迷惑之由ニ而、若者仲間同仕取調致合」うことになった。つまり、真面目な若者までも全員疑われるので、若者組が自主的に下手人探索をするというのであった。この結果、三人の若者が下手人と判明した。三人は若者組内部で制裁されることになり、この一件は一応解決した。ついで翌文政一一年二月一二日の夜、村内観音寮にあった石地蔵一躰が、何者かによって又左衛門の庭に建て置かれるという事件が発生した。この事件は名主のもとへ訴えられた。そして、
  惣百姓寄合之上全以若者共之仕業ニ可之旨一同申談、右躰候儀等閑ニ仕置候而者身分被見掠候而己ならす村内悪例之手初ニも相成、往々騒動之基以来何様之悪行仕出可申も難
として、領主のもとへ訴えられた。つまり、惣百姓の寄合で若者の仕業に間違いないことが確認され、このような悪戯を放置しておけば村内身分秩序の動揺、さらに村内悪弊の端初となって騒動の原因ともなり、どのような悪事が発生するかわからない。したがって、処理を若者組にまかせるのではなく、領主のもとへ訴え出るというのであった。この事件の下手人は結局判明せず、仲介人が石地蔵を元へ戻すことで結着をみた(史料編三九)。
 右に紹介した二つの事例から明らかなように、ことに一九世紀に入ると若者による村落秩序違反がめだってきた。この背景には、農民層の分解による上層農民と中下層農民との利害対立の深刻化という状況があった。若者の乱暴行為は、たんなる秩序違反・不法行為としてではなく、それらの若者がおかれている村内の対立関係に視点をおかなければ、正確には理解できないであろう。