村落秩序の弛緩は、すでにみてきたような一村内部の問題に止まらなかった。第二章第二・三節でみてきたように、大規模な普請や廻状の迅速な伝達には村同仕の緊密な連絡が不可欠であった。ところが、村落秩序の動揺や村々の疲弊状況のもとでは、とかく費用のかかりがちな諸用件を厭う風潮が増幅してきた。ここでは、その一例として、文化一二(一八一五)年におこった拝島村と田中・大神両村との対立を紹介しておこう。
この年の五月一〇日午前一〇時ごろ、熊川村から拝島村へ一人の病人が送られてきた。この病人は駿州駿東郡(現静岡県の一部)舟津村の百姓郡蔵という者で、この年の四月以降諸国の神社仏閣巡礼のために、国々を廻っている旅人であった。この郡蔵は野州都賀郡(現栃木県の一部)にある、日光例幣使道の富田宿にさしかかったところ、病気で倒れてしまった。さいわいに宿役人の手当をうけて快方にむかったので、本人の希望をいれて生国舟津村へ送り返すことになった。そこで、富田宿の村役人衆の発行した「送一札之事」(史料編四一)を添えて、無賃の村継ぎで生国めざして送られることになった。「送一札之事」には、郡蔵を無賃で継ぎ送ってほしいこと、日暮れになったらその村で一夜の宿を貸してほしいことなどが記されていた。さらに郡蔵の所持品としては、風呂敷包み一つと貨幣が二分二朱銭一〇〇文としたためられていた。道中は富田宿から館林通り・八王子通りを経て八王子へ送り、そこからは便宜な道筋を選んで、東海道原宿まで継ぎ送ることを、添書に要望してあった。
ところで拝島村の場合、継送りは前々よりの申し合わせにより、熊川村←→拝島村←→田中村と経路が設定されていた。そこで拝島村では、熊川村から継ぎ送られてきた郡蔵を田中村へ送ったところ、郡蔵は田中村で請けとりを拒絶されて、拝島へ戻されてしまった。田中村の言い分は、たとえ田中村でうけついでもこの道筋は「不順継方」なのでつぎの大神村で拒否されてしまう、というものであった。なぜならば田中・大神両村は、富田宿からの「送一札之事」に指定されている八王子通りの村々ではないからである。拝島村側ではたびたび田中・大神両村へ交渉したが、田中村側ではどうしても請けつけなかった。このため、郡蔵を拝島村に留めたまま、昼夜かかさず介抱人をつけて薬などを与えるかたわら、領主のもとへ訴え出た。領主の取り調べの最中、郡蔵の病状は悪化して五月一六日にいたり死亡してしまった。拝島村ではすぐに三給の領主それぞれに検死を願い、かつ郡蔵の国元へ連絡をとった。国元からは郡蔵の忰仁兵衛と村役人が拝島村へ来て、不満を述べることもなく死体を引き取ったので、この一件は決裁された。
しかしながら、拝島村ではこの一件に関して多くの出費をしたことになった。同年八月になって拝島村は、この原因は田中村側が従来よりの継送り慣行を破って、病人を送り返してきたためであるとして、田中・大神両村に費用の弁償をするよう、奉行所へ訴え出た(史料編四二)。この拝島村の訴えは評定所で受理されて、双方は対決することになった。評定所としては、農村支配の要件の一つである継送り経路の混乱を看過できなかったのであろう。
拝島の出訴に対して、田中・大神両村はつぎのような反論を述べている。郡蔵の継送り経路は、「送一札之事」で八王子道をとおって八王子へ出るようにと、添書に記されている。したがって拝島村からは、多摩川を渡って左入村へ継ぎ送れば、「八王子道順当之継方」となる。田中・大神両村は八王子道に接している村方ではないのに、拝島村は我意をとおして富田宿の依頼を遵守しなかった。もしも拝島村のいうとおりに、「不順横合之当村々」経由で八王子へ送れば、二里余の廻り道になってしまう。これでは、急を要する病人の取り扱い方として宜しくない。田中・大神両村としては、「不順継之事」ゆえに、右の旨を拝島へ返答した。けれども、拝島村は富田宿の道筋依頼をおし隠したまま訴訟をこころみたのである。さらに郡蔵病死の件で村入用がかかったことも、原因は拝島村のやり方にある。「拝島村之所為之様、大郷之威勢ヲ以小村と悔申掠」るものである。評定所としては、富田宿の「送一札之事」を十分に取り調べて、田中・大神両村が「不順不相当之継方」をしたのではないことを了解していただきたい(史料編四三)。
この争論の裁決結果は史料が存在せず不明である。けれども、拝島村の訴状および田中・大神両村の返答書から、この争論の背景をうかがうことは可能である。そのために、ここで双方の主張を整理してみよう。
拝島村の主張…田中・大神両村が従来からの継送り慣行を無視したこと。そのために結果として無用な村入用を必要としたこと。
田中・大神両村の主張…富田宿の「送一札之事」を無視して、大村の威勢で小村を悔どり申し掠めたこと。
この双方の主張を参考として、争論の背景をさぐってみると、次の点が指摘できよう。
(一)双方ともに、継送りを安易にすまそうとするか、もしくは回避したがっていること。
これは、当時、継送りそのものが村の大きな負担となっていたことに原因がある。その負担は助郷役負担などとともに、農民経営を圧迫していたのである。
(二)継送り経路をめぐる双方の見解がするどく対立し、妥協をみたかったこと。
この背景には、たんなる郡蔵の継送り経路の選択をめぐる対立のみではなく、拝島村と田中・大神両村には本来的な対立感情が存在したことが推定される。それは、田中・大神両村側の表現によれば「大郷之威勢ヲ以小村と悔申掠メ」るといったものであった。
この二点、すなわち継送りの回避志向と大村・小村との対立が、結果として病人郡蔵を拝島村に七日間留まらせて死亡させてしまった原因であると考えられる。
この一件から、幕藩制下における交通運輸手段の一つであった継送り制度の破綻、および村落間秩序の動揺をうかがうことができるのである。