D 運平・みな夫婦の行動

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 本項で述べてきた「上川原村宇助一件」の当事者宇助には、二人の男児がいた。長男の喜兵衛は家督を相続して、村で農業を営んでいた。喜兵衛は病弱であったため、天保九(一八三八)年に家督を子供の源次郎に譲り、その後隠居していた。次男の運平は、兄喜兵衛や甥源次郎の世話を受けながら生活していたが、農業を嫌い他所へ遊び歩くことが多かった。運平は天保一〇年に出先でみなと知り合って、兄喜兵衛に相談することもなく、彼女を女房とした。運平・みな夫婦は、その後も日雇稼ぎをしながら処々を転々として、上川原村に滞まることは稀であった。
 ところが天保一四(一八四三)年にいたり、事態が一変した。村内には伝右衛門という、経営の困難な独身者がおり、家屋もなく村内親類のもとへ同居していた。この伝右衛門が天保一四年に死去し、百姓株が一つ空席となった。そこで運平は、名主甚右衛門の斡旋で、伝右衛門の跡式を相続することになった。運平は伝右衛門の屋敷地一畝一八歩を譲りうけ、さらに以前から伝右衛門が村内の四郎兵衛に質入していた、下々畑一畝一二歩を請け戻して独立し、農業経営を始めることになった。なお住居は、隣村拝島村の林蔵所持の店(たな)(貸家)を借りて、そこに定めた。これ以降連年にわたって、上川原村は運平・みな夫婦の訴訟行動に悩まされつづけるのである(第1表参照)。

第1表 運平・みなの訴訟

 運平は右の経過で、上川原村の一軒前の小前百姓になった。しかしながら、運平が伝右衛門から相続した屋敷地は、以前から名主甚右衛門へ質入されており、運平が家屋を建てることは不可能であった。また四郎兵衛より請け戻した下々畑一畝一二歩の畑地は、場所・反別ともに違っているという理由で、弘化二(一八四五)年の夏成年貢より、七畝分の年貢が課せられてきた。これに対して、運平は病身であったため女房みなが代理人となって、九月に代官へ訴訟がおこされた。
 これより先、同年三月、運平は家屋新築を兄喜兵衛に泣きついた。喜兵衛は村役人に相談し、村中一同の申し合わせにより、村の「百姓潰株取立候節手当として積立置候金子」のうちから九両、その外に村内一同から三両、あわせて一二両が名主甚右衛門をとおして運平に「家作代」として渡されていた。ところが運平夫婦はこの金を浪費してしまい、家屋の新築をしなかった。そのうえで、運平の屋敷地を甚右衛門が質にとっていたにもかかわらず、その分の年貢を運平に課してきたといって、代官所へ出訴したのである。これが弘化二年九月の訴訟である。
 この訴訟では、仲介人が双方のあいだに入って、次のような解決をみた。まず、甚右衛門へ質入れされていた屋敷地については、たしかに甚右衛門へ質入れされており、甚右衛門は屋敷添の下々畑二八歩を作付けしてはいたけれども、これは運平へ請け戻させることになった。ついで四郎兵衛より請け戻していた下々畑の場所・反別の真偽が究明されたが、その判定は困難をきわめた。その理由は、この時期における上川原村の畑地一筆ごとの所持者は、天保飢饉時における頻繁かつ複雑な土地売買譲渡によって、めまぐるしく変っていたためであった。結局、土地台帳関係の諸帳面を突きあわせて照合していったところ、四郎兵衛より請け戻した畑地は二畝二四歩の場所であることがようやく判明した。そこで、同年一二月に済口証文が取りかわされて、この訴訟は結着した。
 しかし、運平の名主甚右衛門に対する遺恨は残った。さらに加えて、甚右衛門は運平へ多量の貯穀差出しを命じてきた。さらに運平は兄喜兵衛に対しても、喜兵衛が策動して家主林蔵に働きかけ、自分を拝島村の借家から追い出そうとしていると思った。それに加えて、かって自分が家屋新築のおりに使用するつもりで買い求めていた建具・材木類・および蕎麦三斗を喜兵衛に預けておいたところ、これらの品々を戻してくれようとはしないと思った。そこで、翌弘化三年二月に、みなは甚右衛門・喜兵衛を相手どって、再び代官所へ訴訟をおこした。
 この訴訟に対して、訴えられた両人はつぎのように返答している。名主甚右衛門は、貯穀の数量は代官所の指図を忠実に実施した場合の、割りあて量であるとを述べている。また兄喜兵衛は、拝島村林蔵による借家追いたては、まったく林蔵の事情によるものであり、喜兵衛の関知しないところであるけれども、甚右衛門とともに林蔵へのとりなしを約束した。また喜兵衛方で預っている運平の品々については、帰村次第(この時点では代官所に出頭して吟味中であった)すぐにも返済することになった。この結果、翌三月に運平の訴訟は取り下げられた。
 この取り極めにしたがって、四月四日に喜兵衛は、富右衛門をとおして運平のもとへ、預り品の返済を通告してきた。みなが喜兵衛の家へ出向くと、そこには名主甚右衛門とともに運平の五人組である富右衛門・勝五郎も同席していた。ここでまた悶着がおこった。ところが、双方の言い分は真正面から対立している。まずみなの申したてよりみていこう。自分が喜兵衛宅へ出向くと、かねてよりの打ち合わせができていたとみえ、甚右衛門・喜兵衛の両人が無理やりに自分を土蔵に引き込んだ。そのうえさんざんに打擲したのち、荒縄で縛りあげた。あまつさえ、喜兵衛は自分に傷つけられたといって、代官所へ訴えでて吟味となった。しかし吟味の結果、喜兵衛の虚偽が明らかになり、喜兵衛は自分に謝った。と主張している。
 これに対して、喜兵衛は次のように述べている。自分(喜兵衛)はみなに対して、品々を引き取るにあたって預り品の種類と数量の確認を依頼した。しかしみなは、運平でなければ預け品の内容はわからないので、確認はできないと拒んだ。喜兵衛としては、みなは「肝悪之ものニ而聊之義ヲも事六ヶ敷申成、出入等企候義間々有之」るので、預り品を確認なしに返したのでは、後日になって品不足であるといいがかりをつけられることを恐れた。そこで是非とも確認を依頼したところ、みなは憤り、自分につかみかかって騒ぎたて処置に困ったので、自分はみなを土蔵に引き入れようとした。ところが、同席していた富右衛門・勝五郎・甚右衛門が仲介に入り、一旦はことが済った。この混乱で、自分はいささかながら傷をうけたが、かえってみなは打擲されたといってその場にすわりこんで動こうとしなかった。そこでやむなく、自分はことの次第を代官所へ訴えた。代官所の吟味では、みなを召出して糾したうえ、納得のいく処置をとられたので、自分としては訴状を取り下げたのである。
 みな・喜兵衛それぞれの主張は、右のようにくい違っていた。この一件はやがて、みなが喜兵衛につかみかかったことも、喜兵衛がみなを打擲したこともなく、双方のもみ合いでともにかすり傷をうけた、ということで解決するのである。ともあれ、この四月四日には、預り品の請け渡しはおこなわれなかった。
 この弘化三年四月に、上川原村の名主は、甚右衛門・七郎右衛門より、金右衛門・源左衛門に交代した(本章第三節第二項参照)。みなの申し立てによれば、甚右衛門は名主退役後も喜兵衛らと馴れ合って、迷惑をかけてきたという。さらに借家主の拝島村林蔵も引き続き立ち退きを迫っていた。そこで拝島村の当時無住であった寺へ引越すことになった。四月下旬にいたり、みなは名主金右衛門を訪れ、喜兵衛方に預けてある品々引き取りの仲介を頼んだ。ところが金右衛門は取りあわず、かえって甚右衛門・市蔵らと馴れあって、村内の小前層に対して、運平所持地を小作してはいけないと伝達した。このため、運平所持地は荒地になり、年貢・村入用は借金をして納めなければならなかったという。
 この件について金右衛門は、貸借は兄弟間のことであり、村役人が仲介するまでもなく相対で処理するように述べたにすぎない、と反論している。
 さて、運平方は新たな争論材料を見つけだした。それは、村持山王社地の社木を伐採して売却した代金の処理をめぐるものであった。運平方の申し立てによれば、この代金のうち四〇両弱は、以前に質入れしてあった村持地を請け戻す費用にあてるという名目で、甚右衛門・金右衛門・源左衛門が預っていたが、彼らがそれを横領したというのである。

上川原町山王社(日枝神社)

 弘化四年四月八日、運平方は、喜兵衛への預け品の請け戻し、および村役人層による山王社地伐採代金の横領を、代官所へ駆け込み訴訟した。このおり、運平は訴訟のため他所へ赴くことを、甚右衛門・金右衛門・源左衛門・喜兵衛・市蔵等にことわったとしている。ところが、村役人側では、運平方が駆け込みで出訴した時点には、すでに代官所へ運平・みな夫婦が欠落して行方不明になったと申しでていた。これを知った運平方は、事前にことわって離村したにもかかわらず、これを欠落と判断したことは納得できないとして、この件をもあわせて訴訟を願い出た。
 この運平の訴訟に対して、喜兵衛たちは次のように反論している。まず欠落の件について。弘化四年三月の宗門人別改帳作成について、運平は近々出府するので江戸表で捺印すると述べた。それでは宗門帳が整わず役所へ提出できないので、再度運平を訪ねると行方不明であった。そこで運平分のみを保留にして、宗門帳を代官所へ提出すると、代官所から日限を限って探索するように指示された。欠落訴訟をしたのは、このように宗門帳の印形が漏れているためであって、運平が調印するならば異論はない。ついで、山王社地伐採代金について。この代金は村内一同に割りあてており、運平にも四両渡してある。その請取の印形もとってあり、いまさら問題とするのはおかしい。
 この訴訟はなかなか結着がつかずに長引いた。そこで運平は翌嘉永元(一八四八)年五月、ひとまず村へ帰った。すると、運平が三郎兵衛に小作させていた桑畑が、甚右衛門・喜兵衛・金右衛門・富右衛門・勝五郎によって、伐り採られていた。そのうえ、三郎兵衛からの小作銭が富右衛門のもとに納められていた。そこで運平は同年一二月、右の者たちを相手どって新たな訴訟をおこした。桑葉ならびに小作料横領を訴え出たのである。
 これに対して、甚右衛門たちは次のように反論している。まず桑葉の件について。桑の葉を摘む時節になっても運平夫婦は行方不明で、そのままにしておいたのでは損失でもあり、相談のうえ摘み採った。売り払った代金一分二朱は金右衛門が預かり、運平が帰村したおり渡すはずであった。ところが運平は事情も了解せず、いきなり横領を騒ぎたてた。ついで小作料の件について。嘉永元年五月に、運平が三郎兵衛のもとに来て、小作地の年貢・小作料を残らず請求した。このため、三郎兵衛から喜兵衛のもとへ相談があった。喜兵衛は、これまでの年貢・諸夫銭は村役人方で立替ておいたので、小作料のみを支払うように伝え、このことを運平にも通知した。そののち、運平は行方不明になったので、小作料銭二貫文は富右衛門が預った。運平が帰村したら、喜兵衛の預かり品・桑葉代金・小作料を渡すはずであったが、運平がいきなり「馴合理不尽」と申し立てたのである。
 これまでにみてきた弘化四年三月・嘉永元年一二月の争論は、嘉永六年一〇月になってようやく結着をみた。争点ごとの解決方法を列記しておこう。
 (一) 喜兵衛の預っていた品々は、年月が経過して朽ち損じてきたので、相当の金額を運平方へ渡す。
 (二) 桑葉の代金・小作料は、ともに運平方へ渡す。
 (三) 三郎兵衛が小作地を一旦返すといったのは、同人方で病人がでて手が廻りかねたためであり、金右衛門などによる圧力のためではない。
 (四) 山王社地売払銭横領の件・運平夫婦欠落の件は、ともに存在しなかったことにする。
 (五) みなが、目上の者を相手どり度々の出訴に及んだこと、さらに我意をとおすために御吟味を拒否したことは、不埓であり罪科を申しつけるべきところである。しかし、訴訟を取り下げたことやすでに入牢していることもあり、不問とする。
 (六) 喜兵衛・甚右衛門・金右衛門・源左衛門・市蔵・富右衛門・勝五郎は、運平・みなの探索を代官所から指示されたおり、探索が不十分で駈込み訴訟以前に見つけられなかったのは不埓であり、「急度御叱」(刑罰の一種)を申しつける。
 運平・みなを中心として、上川原村役人層をまきこんだ一連の訴訟は、このような示談により一応の終結をみた。すでにこの時点では、運平は死亡していた。けれども、みなによる訴訟はこののちも続いたのであり、文久三(一八六三)年にみなが死亡して、ようやく終ったのであった。
 運平・みなの行動およびそれを取りまく上川原村の人々の対応を、繁雑をかえりみず詳しく述べてきた。これによって、運平という一人の下層困窮農民の行動・論理がある程度明らかになったと思われる。それは、村役人を中心とした有力村民に対する徹底した抵抗の姿である。運平・みなは、一軒前となる以前の時期に他所を放浪しており、その間に身につけた世間的な知恵も、彼らの行動・思想の形成に大きな影響を及したと推定される。しかしながら、弘化二~嘉永六年までの一連の訴訟は、上川原村の村落秩序そのものにむけられた闘いであった。本来からいえば、近世における村落秩序とは、村役人層を中核とする上層農民の主導権のもとに中下層農民が従属・結集して、相互扶助をはかるものであった。上川原村の甚右衛門による百姓取りたて、家作金の交付、村役人・五人組・親類による桑葉の摘みとりは、まさに村落秩序を維持し、その一環として下層農民の経営を扶助するという論理に基づいたものであった。
 これに対して、運平・みなの行動は徹底した反発の繰り返しであり、従来の秩序に対する挑戦であった。そして、村役人層は彼らの反発に譲歩を重ねていかざるをえなかった。嘉永六年における、奉行所のみなに対する処罰対象も具体的な争論内容ではなく、「目上之ものを相手取度々及出訴」んだという村落秩序違反と、「御役所之御吟味相拒候始末」とに限定されざるをえなかった。そして処分そのものも、結果的には不問となったのである(史料編一一三)。
 本項で冒頭にみた一八世紀末における宇助の行動は、経済力を背景として、既成の村落上層部への上昇を願うものであった。これに対して、一九世紀半ばにおける運平の行動は、既成の権威・秩序に対する否定の論理に基づいていた。このような論理に基づく行動は、既成の秩序・論理を尺度とした価値判断ではしばしば「無頼之徒」として扱われている。しかしこの意味での「無頼之徒」は、近世後期における農民層分解による下層の貧窮農民のなかから、不断に生れてくるものであった。幕藩制国家の基盤を形成していた農村において、右に述べてきたような、既成の秩序に対する否定の行動・論理をもった者があらわれ、この者に対する村役人層の譲歩が繰り返されるような構造が一般化すると、それはたんなる村落内部の問題に止まらず、幕藩制社会全体を基底から揺がしていくことになるのである。