A 支配体制の危機

911 ~ 913 / 1551ページ
 本節第一・二項で述べてきたように、一八世紀後半以降における江戸地廻り経済圏の成立・発展のなかで、多摩地方の農村はその成りたち方を大きく変化させてきた。ここで改めて要約しておくならば、商品生産の高まりのなかで、流通過程に携わって利益をえることのできた村役人層を中心とする上層農民と、商品経済にまきこまれて貧困化していった中下層農民との格差が明確になっていったことである。この農民層分解の進展は、一方で中神村中野家・上川原村指田家のような豪農経営を輩出し(本章第三節参照)、他方で零細農民の出現・潰百姓の増加と人口の減少・村方騒動の激化をもたらした。ことに後者は、村落秩序の弛緩・身分制秩序の動揺という状況を招いた。武器をもって恐喝や暴行をはたらく人別はずれの博徒・無宿が農村の奥深くまで入り込み、博奕も盛んにおこなわれるようになった。この状況はすでに一八世紀半ばすぎには幕府の憂慮するところとなっていた。明和四(一七六七)年には、幕令としてだされた勘定奉行から諸国の代官への指令に、つぎのような文言がみられる。
  関東筋并甲州辺は一体人気強、我意申募、不宜ものも致出来候、風儀は国柄ニ相聞、別て武蔵、下総、上野、下野、常陸辺は不宜ものも有之、困窮之村方ニ応し候ては、身分不相応ニ着服等取飾候者も有之様相聞候、博奕三笠附之儀は、……万一内々右躰之儀も有之               (『御触書天明集成』二四六一)
 つまり、諸国のなかでは、関東・甲州地方が殊に憂慮すべき状況にあり、風俗の華美・博奕の横行が顕著であるというのであった。関東一円には、こののち国定忠治などに代表される博徒の輩徊する要素がすでに十分にあったわけである。
 さらに第一章第三節で述べたように、関東領国体制の特質、すなわち昭島市域の村々もそうであったように、幕領・旗本領・寺社領が分散し、複雑に入り組んでいたこともわすれてはならない。知行の分散・入組みは、それだけ領主支配の弱体性を意味する。近世後期にいたると、旗本の知行権は年貢収納権にほぼ限定され、治安警察権に基づく村落取締りは村役人にゆだねられていたのが実情であった。しかるに村役人層も、小前層による相つぐ村方騒動の影響をうけて、その地位は必ずしも安定してはいなかった。
 右に述べたような関東における在地の混乱と領主制の危機は、幕府の存立基盤にかかわるだけに、幕府は事態を深刻にうけとめていた。天明飢饉による農村疲弊がいまだ十分に回復していない寛政四(一七九二)年三月、関東郡代伊奈忠尊(ただたか)が素行不良と家事不取締を理由に改易された。伊奈家は近世初頭以来、支配地三〇万石余の関東郡代として、この地方一帯を支配していた。それが改易され、関東郡代は幕府勘定奉行の兼職とされたのである。ここに、関東の政治支配組織の一時的な空白状態が生れた。
 この空白状態を埋めるために、新しい強力な農村取締機構が創設されなければならなかった。それは、関東農村の荒廃し不穏な状況に対しては、従来のような村請制を基盤とする農政機構では対応できず、支配の限界が明らかになったためである。新しい治安機構の創出が、支配の存続に不可欠の要素となっていたのであった。まず、寛政五年に上州岩鼻に岩鼻陣屋が設置されて、代官が常時駐在することになった。岩鼻は中山道と利根川の交じわる交通の要地で、ここをかためて無宿の往来や農民の動向に対処するためであった。さらに享和元(一八〇一)年には、代官の手附・手代、江戸町奉行組のものを、関東一円にわたって幕領・私領の区別なく巡廻させ、博徒の取締りにあたらせることになった。