B 関東取締出役の設置

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 文化二(一八〇五)年に、関東取締出役、通称「八州廻り」が新設されたのは、これまでの臨時措置を制度化したものであり、治安警察機能の充実・強化をねらったものであった。
 関東は、すでに述べてあるように、公・私領が錯綜しており、せっかく犯人を追いつめても、他領へ逃げ込まれれば追跡できず、みすみす犯人を逃がしてしまうことが多かった。文化二年六月に、この行政上の盲点を克服する制度が、公事(くじ)方勘定奉行石川左近将監から江戸近郊の四手代官(品川、板橋、大宮、藤沢)に諮問されたのである。この四人の代官によって創案され、同年九月に石川左近将監の認可をうけて設置されたのが、関東取締出役であった。四手代官の手附・手代各二人、計八人が出役に任命され、当初は上州を対象地として公・私領の別なく廻村して、無宿や悪党の取締りにあたることになった。
 この関東取締出役は、勘定奉行の直接指揮をうけ、勘定・寺社・町の三奉行連名の証文を携行していた。出役の大きな特徴は、幕領のみならず私領内においても、警察権を行使できることであった。けれども、この幕府役人による私領内での行政権発動は、給人知行権を制限するものではなく、両者は共存の関係にあった。
 文化四年五月に、出役の人数は二人増員されて一〇人になった。だが、広大な関東八州をこのわずかな人数が廻村して、治安維持の実効をあげることはとても無理であった。森安彦氏は、関東取締出役体制の弱点を、つぎの四点に整理されているので引用しておこう(註二)。
 (一) 無宿・悪党の集団徒党化に対して対抗しえない。
 (二) 召捕ったものの江戸送りは、すべて村費用によったため、村負担が増大し、村の協力が得られない。
 (三) 文政期に入ると村落荒廃がいっそう激化し全面的になってきたので、従来のように特定の地域をパトロールするのでは取締効果はあがらず、一定の組織で全域を網羅できる取締区域(組合村)を設定する必要があった。
 (四) たんに無宿・悪党の追捕のみでは村落治安の維持強化にはならず、広汎に展開してきた農間余業、在方商人の実態とその把握が必要になってきた。