C 文政改革

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 文化末年から文政にかけて、関東の治安は悪化の一途をたどり、それにしたがって関東取締出役の機能では対処しえなくなってきた。ことに文政九(一八二六)年には、春に上総国の群盗蜂起、夏には江戸で群盗が跳梁し、秋には関東一円で悪党・無宿者が違法行為を頻繁にひきおこした。これに対して、同年九月に幕府は、長脇差・鉄砲・槍をもって徘徊する者は死罪その他の重罪にするという、強硬方針をうちだした。
 翌文政一〇年正月には、関東取締代官として、山田茂左衛門・山本大膳・柑木兵五郎の三人が任命された。さらにその配下の手附・手代のなかから、取締出役一〇人が選出され、うち八人は担当地域を定め廻村して取締りに従事し、残り二人は江戸に留まって評定所・御奉行附となった(第2表)。

第2表 文政10年正月 関東取締出役一覧

 翌二月、関東全域にあてて「御取締筋御改革」という、四五ケ条にのぼる長文の触書が交付された。これは化政期に出された農民取締りの触(ふれ)を集大成したもので、文政改革の基調を示したものであった。幕府はこの「御取締筋御改革」を、各村ごとに惣百姓連印の請書とすることを指示して、その徹底をはかった。昭島市域の村々でも、この触書を請書として遵守を誓わされたのであり、現在でもほとんどの村にその写しが残っている。
 この四五ケ条の触書は、すでに『世田谷区史』、『幕末郷土史研究法』所収森安彦論文などに全文掲載されており、本市史では重複をさけて史料編にも載せていない。そこで、その大略のみを述べておきたい。この触書は前文(前書と四ヶ条)と後文(前書と三九ケ条)とにわかれている。前文は、改革の趣旨を明らかにしたもので、年貢負担者である農民の生活と農業経営を維持するために、無宿・悪党・浪籍を取締り、また在方商業を統制したものであった。後文は、前文をうけた具体的な施行細則で、無宿・悪党の取締方法、博奕・風俗奢侈の取締り、強訴・徒党の禁止、囚人護送の方法、農間商人増加の抑制などが記されており、また村々の経費負担の基準などについては数量的な規定もされていた。
 一ケ条ごとの内容を簡単に記すと、つぎのようになる。まず前文について。前書…武器携帯の禁止、一…五人組帳前書の徹底、二…質素倹約、三…芝居など、人々の集まることの禁止、四…商行為の抑制。つぎに後文について。前書…万端質素、一…法度の遵守、二…組合村の設定、三…悪者を村から排除すること、四…悪党の差押え、五…悪党差押えの諸入用規定、六…浪人などへの合力の禁止、七…不確かな者の止宿の禁止、八…不穏者の上訴、九…博奕の禁止、十…人集めがましきことの禁止、十一…村芝居の禁止、十二…神事・祭礼などの簡素化、十三…身元不明者の村内居住の禁止、十四…他所行の制限、十五…婚礼の簡素化、十六…祝儀の簡素化、十七…不祝儀の簡素化、十八…若者の取締り、十九…新規商いの禁止、二十…職人手間賃の抑制、二十一…村入用節減、二十二…出役賄費の節減、二十三…役人不正の禁止、二十四…勧化経費の節減、二十五…悪者の教化・帰農促進、二十六…村内不心得者の教化、二十七…寺院・村役人の博奕の禁止、二十八…取除無尽などの禁止、二十九…御構者の扱い規定、三十…公事師の禁止、三十一…御鷹御用不正の禁止、三十二…盗鳥の禁止、三十三…囚人の扱い規定、三十四…駕籠の簡素化、三十五…囚人飯料の規定、三十六…旅籠代下直の指示、三十七…組合村雑用の節減、三十八…村経費の節減、三十九…忠孝者の表彰。
 この四五ケ条の内容を一見することで、この時期における関東農村のかかえていた問題点を、ある程度まで知ることができよう。
 文政改革の特質は、警察機構の整備によるたんなる治安対策の強化に止まらず、在方における商業統制をもあわせて実施しようとしたところにあった。これは、農業における商品作物栽培・農問稼としての商業活動が、農民の経営にとって不可欠の存在となっていたことを反映したものであった。さらに、従来のような一ケ村単位での取締りではなく、公・私領の別をこえて組合村を組織させることによって、一定の地域を統一的に掌握していこうとするものであった。