この組合村の編成は、領主の異同に関係なく、近隣の村々を村の大小・村高の多少により三~六ヶ村をまとめて、小組合とした。この小組合を一〇程度集めて、およそ四五ケ村見当をもって大組合を組織し、この大組合を一単位とした。大組合のなかで、村高が大きく治安の良好な村を親村として、これを組合村寄場とよんでその組合の中核とした。この村の名主を寄場役人と称した。さらに傘下の各小組合の惣代(小惣代という)から数人を選んで大惣代とし、寄場役人とともに組合村全体の運営にあたらせた。このような小惣代・大惣代・寄場役人に任じられた者は、各村村役人中でも有力な者で、在郷商人的な地主層に属するものであった。幕府の意図は、この在郷商人を兼ねる地主層を掌握することにより、これらの階層を通じて農村支配の強化をはかることであった。
さて、昭島市域の村々の場合は、東半分の地域が日野宿組合に、西半分の地域は拝島村組合に所属することになった。日野宿組合は、四四ケ村・村高合計一五、三三六石余、天保一一(一八四〇)年の家数は合せて二、三四〇軒を数えた。この大組合は八つの小組合に分れており、市域内の郷地・福島・築地・中神・宮沢の各村は柴崎村(現立川市)とともに壱番組を構成し、慶応四(一八六八)年段階では、郷地村名主の兵蔵が小惣代としてこれを統轄していた(註三)。
拝島村組合は、二五ケ村・村高合計一五、五一五石余(外に御朱印高一二四石)、天保一一年の家数は四、〇八一軒であった。市域内の村では、拝島・田中・大神・上川原(および作目村)の各村が所属していた。拝島村組合の全貌は、第3表のとおりである。文政一〇年における寄場役人は、親村拝島村の三給名主であった孫左衛門・伝七・林右衛門が勤めており、大惣代は砂川村名主の源五右衛門と、羽村名主の安治郎がこれにあたった。
第3表 拝島村組合一覧