E 組合村の機能

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 関東取締出役および組合村の設置は、関東における幕府の治安警察機構の整備と村落支配機構の再編強化とを目的としたものであった。組合村は、関東取締出役の指揮をうけて、この目的を実施する組織であったため、組合村の機能は当然のことながら多岐にわたっていた。そのなかでも、治安機構の側面と経済統制機構の側面とが注目されている。
 まず、治安機構の側面からみておこう。この機能は、無宿者の取押えとその費用の分担にあったが、さらに各村相互間の法度違反に対する監視をも荷わされていた。これらは、関東取締出役の活動を補強するものであった。この組合村の警察的機能で画期的なものは、天保四(一八三三)年になって寄場に囲補理場(仮牢)がつくられて、囚人・無宿者を数日間預けて教諭を加える仕組みになったことであった。囲補理場は、寛政改革時に江戸石川島に設置された人足寄場を、関東一円に拡大したものとされている。この費用は、すべて組合村の負担とされたため、以降幕末になるにしたがって各村の財政を圧迫していく一因となった。
 経済統制の機能は、文政期に関東取締出役の任務に在方商業の取締りが加えられて、組合村もその末端を荷うことになった。文政一〇年から翌年にかけて、大規模な農間余業調査が行なわれた。これは、農間余業の展開度を掌握して在方株に編成することで、経済の統制をはかることを目的とした。ことに、質屋・居酒屋・湯屋(風呂屋)・髪結床・大小拵研屋などが詳しく調査されている。また、大工・木挽・桶屋などの職人の手間代と、日雇賃銀や豆腐・酒・菓子などの価格にも統制が加えられている。
 中神村の場合をみると、第4表に示したように、文政一〇年には質屋渡世の者二人、居酒屋渡世の者三人が書き上げられている(史料編七〇・七一)。延べ五人であるが、孫右衛門は質屋・居酒屋をともに営んでおり、実際には四人である。このうち、小右衛門を除く三人は、いずれも名主・年寄・組頭といった村役人層であった。また、天保一一(一八四〇)年には、拝島村組合の単位で職人の手間代が取り極められている。この時点で、上川原村では金右衛門・太郎兵衛の両人が大工職を営んでいた(史料編七四)。このほか拝島村ではやはり村役人層によって水車稼が営まれており(第三章第一節参照)、他の村々でも各種の農間渡世が存在したと思われるが、それを証明する史料は現存しない。

第4表 文政10年(1827)中神村農間渡世一覧

 組合村の設定に代表される文政改革は、この時期以降明治維新にいたるまでの関東農民支配の基調を示したものであった。つまり、制度としてはそれなりの有効性をもっていたわけである。けれども、すでに述べたように、諸機能を維持するための費用は、その組合村農民の負担になっていた。このため、幕末期に近ずくにしたがって、村入用の支出は増大の一途をたどり、農民経営を圧迫する一因となっていった。
 (註) 本項の執筆は、北島正元、森安彦、大石慎三郎の各氏の研究成果に拠るところが大きい。