A 文化・文政期の状況

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 文化・文政期(一八〇四~一八二九)は、全国的に好況の時期であったといわれている。昭島市域の村々も、新しい経済的活動が成長しはじめた。たとえば、文政元年の八王子市場における騒動は八王子宿方縞仲買の市場支配を、中神村中野家をはじめとした在方縞仲買達が周辺村落の織屋農民とともに排除し、彼らの発展の基盤を形成した事件であった。また大神村の中村嘉右衛門は、上州桐生や九州筑前(福岡県)を歴訪し、博多織帯地の産出に成功し、昭島市域における織物業に画期的な飛躍をもたらした(史料編九一)。
 この好況の要因の一つに、天明飢饉以降きわだった不作がおこらなかったという気候状況があったことがあげられよう。しかし、少しこまかにみていくと、化政期にもいくつかの不作があった。たとえば文化一二(一八一五)年には日照りになやまされ、翌一三年は大洪水があった。そして文政八(一八二五)年は、全国的に不作であった。
 この文政八年の不作は、昭島市域ではどのような状態だっただろうか。この年の一〇月、築地村の村役人達が江川代官所に破免検見を願い出ている。訴状の一節に、「当酉田方夏中打続候雨天、殊更不時之冷気ニ而青立不熟」(並木安子家文書)とあり、冷害によって青立(稲に実がつかないこと)となったことがわかる。この不作状況を第5表にまとめておいた。この冷害は、天保飢饉の前ぶれであったと考えることができる。すでにこの時から気候は異常を示していたのだが、神ならぬ身の彼らは、それに気づくはずはなかった。そして、天保と改元されるや否や、一挙に異常気象がおそってきた。天保飢饉のはじまりである。

第5表 文政8年築地村不作状況表